必要信仰論

●信仰と懐疑
信仰は理論的理性ではなく実践的理性によって要請されるものであるという意味は、別の言い方をすれば、疑いが解決されないと信じることのできない「信」もあれば、疑いは疑いとしてありながら生きるために信じるしかない「信」もあるということだ。神信仰は後者の方である。たとえば作家の正宗白鳥氏がその例に入るようだ。

以下、文芸評論家の山本健吉氏が昭和37年の春(白鳥が亡くなった直後)に『人生恐怖図』について書いた解説の文章。「氏」とは正宗白鳥を指す。
<「氏は回心したのではない。回心する必要はなかった。なぜなら氏は終始キリスト教徒だったから。だからこそ氏は終始キリスト教への懐疑を口にせざるを得なかった。無神論者なら、一度口にすればすむことだ。氏の考えはいつも神の存在に戻ってくる」。「神はあるか、あるいはないか、白鳥氏は青年時代からずっと問いつづけて来たのである。(中略)白鳥は神はないと結論を下した。観念の上においてである。氏の棄教は、そういう意味での事実である。だが、キリスト教の教義を懐疑し、その結果棄教したとき、氏における真の懐疑が始まったのではないか。生活者としての氏は、そのみずから下した結論に安住しえなかったのだ。死の不安は、常に氏の覚めた悟性を裏切るのだ。生活者としての氏は、神はあるはずだという声を終始聴きつづけて来たのではないのか。信仰と懐疑とは、氏の精神にとって楯の両面ではなかったのか。氏は懐疑すら懐疑しつづけて来た懐疑主義者ではなかったのか。それが氏の文学の、六十年にわたっての源泉ではなかったのか」。>

 

一般的には理論理性が実践理性に優り、信仰は「迷妄」として否定されるが、「生活者」に於いては実践理性が理論理性に優り、信仰が「迷妄」だの「懐疑」だのと頭では認めながらも否定しきれないものとして現実にあるということだ。当人の意識とか思想を超えている信仰とは他力であり神の賜物としか言えない。
「魂」ということが言われているが、それで関連して想起するのは、確定死刑囚の坂口弘氏が著書『続あさま山荘1972』(彩流社)の中で「魂の救済」という題で述懐しておられることだ。坂口氏は差し入れされた犬養道子さんの聖書関係の著書を拾い読みして、御自身と同じく死刑囚であったイエスと出会い、それまで聖書について疑問に思っていた諸々の事がどうでもよくなった旨のことを記しておられる。まさに矢内原忠雄氏がいわれる「解決」ではなく「解消」されるということ(「ヨブ記略注」〔『全集』第13 p300〕)と通じる体験だ。

<魂の救済
言いようのない死刑の重圧の下で、嫌悪感を押して森文書を分析している時、余りの苦しさから、私は初めて聖書を読んだ。いや、それは聖書ではなく、犬養道子女史の解説書であった。その読み方も、苦しみを和らげてくれそうな箇所を拾い読みするといった実にいい加減なものであった。それでも苦しい分析に萎えた気力を、再び養うことが出来たのである。キリストは実在の人物なのかどうか? 彼は人なのか神なのか? 創世記や数々の奇蹟は、余りにも非科学的ではないか? こういう疑問は、苦しみの只中に居る者にとっては、どうでもよかった。自分と同じように、人間以下の存在に堕ちて、死の苦悩にのたうつ人が居るということが、慰めになり、救いになったのである。>(p285)
「どうでもよかった」というのが「解消」であり、理論的に聖書を理解したというのではなく、死の現実に直面した限界状況の中で切実に救いを求めるという実践的意味においてイエスの現在に信を得られたのだと思う。それはキリスト教という宗教とは直接関係のない、もっと深い聖書の体験である。

坂口氏が置かれているような限界状況に於いては、キリストが神か人かといった疑問など私にとってもどうでもよくなるのではないか・・・?と思われるかも知れないが、少なくとも三位一体や神人二性一人格といった正統教義は人知を超えた神秘であるから受け入れるべきだという教会の詭弁に従うという意味ではどうでもよくないのだ。否、それは私自身、限界状況に置かれていない・・・まだ余裕があるから思弁的理性が働いて、教義の事柄に拘泥するのであろう・・・と言われるかも知れないが、確かに思弁的欲求もあるかも知れないが、三位一体や神人二性一人格の教義を認め得ないのは決してそれだけのことではない。たとえ自分が死を前にした限界状況に置かれたとしても、キリストが神か人かという問題はどうでもよくならないと思う。それは信仰の根幹にかかわる問題だからである。「神」は純粋かつ厳密に「ひとり」でなければならない。それでこそ誠意ある一対一の、我と汝との人格的交わりの内に死を受け入れることが出来るのだ。

 

死ぬとは直ちに御国に入るということではなくて、あるいはただ深く深く眠ることなのかも知れないなと、ふと思う。しかしそれでも、その眠りもまた主の御手のうちにあることを信じている私である。その眠りからラッパの音とともに瞬時にして目覚ましめられる時があり、その時こそ、すべての主にある聖徒らと共に私も顔と顔とを合わせて主にまみえるであろう。だから私の意識の側からすれば、眠っている期間がたといどんなに長くとも、息をひきとって次に気づいたらやっぱり御国なのだ。一方、み国はすなわち神のご支配だと考えれば、その深いねむりもまた神の直接のご支配のもとにあるのだから、死すなわち御国と言っていいのかもしれない。しかし要するにこういう思弁はどうでもいいことであって、今私にはっきり分かっていることは、私の死をも含めて私は神の恵みのご支配のもとにあるということだいずれにせよ、その時、私が目覚めて主の前に立つ時、私はブルンナーさんや鈴木先生やすみれちゃんや、そして之雄先生とも清ともいっしょにいることだろう。>(『わが涙よわが歌となれ』〔新教出版社〕p8687

原崎百子さんは、気力の尽き果てる日や意識の混濁れる日のことを思っておられます。その時に信仰が保たれているか思っておられます。しかし同時に、神さまの側が御自分をしっかりととらえ、御手のうちに包んで下さっていることを知っておられます。意識が混濁してからならともかく、意識は混濁していなくて呼吸困難や激痛の苦しみに襲われている時が問題です。

百子さんの最期は前述のとおり、のたうつような苦しみでした。酸素テントの中で呼吸困難に襲われながら指先で何とか意思表示できる段階から、最後は激しく痙攣して、もはや意思表示も出来なくなったのです。その時、意識はどうだったかはよくわかりませんが、いずれにせよ、原崎百子さんが気にしておられたことは神さまとの関係の自覚が消えることだと思います。

無教会の量義治氏は「無信仰の信仰」という立場から、信仰というのは意識の事柄(認識論的事態)ではなく存在の事柄(存在論的事態)であるとおっしゃいます(『無信仰の信仰』〔ネスコ/文藝春秋〕p53、『関根正雄記念 キリスト教講演集 』〔関根正雄記念キリスト教講演会準備会〕p62)。たしかに信仰には意識や認識を超えた、神共におられる霊的現実の面がありますが意識を介する面もあります。
さらに量氏は対神関係と信仰との区別が出来ていません。信仰が存在の事柄というのは「在り方」という意味ではそう言えますが、「神我らと共に」(インマヌエル)は信仰というより対神関係の事柄です。信仰はその対神関係における人間の在り方です。その対神関係について量氏がM・ブーバーの「はじめに関係あり」を前提として「絶対者なくして人間はなく、人間なくして絶対者もない」と言われる(『無信仰の信仰』p43)ことは聖書的には誤りです。人間なくして存在し得ない絶対者なら絶対者ではなく相対者ということになります。聖書的には「はじめに関係あり」ではなく「はじめに創造主あり」なのです。

人間は常に意識して生きているわけではなく、むしろ、いわゆる無意識的領域が広く、眠りを含めて意識の働きが制限されることが多いのです(テサロニケの信徒への手紙一5章10節の「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」という場合の「眠っていても」は死んでいる状態を意味する)。眠っている時も主なる神の守りの内にあることは詩編3編6節や4編の9節や127編の2節などに示されています。特に127編では神の主権・主導性が謳われています。

エリザベス・キューブラー・ロス博士は、死へのプロセスを、(1)否認、(2)怒り、(3)取引、(4)抑うつ、(5)受容の5段階として示しました。(3)の取引というのは人格神への信仰を前提としてこそ意味を持つと思います。しかし人間は最悪の場合、希望も持てない。前述の呼吸困難や激痛の例のような極限状態においては、本人が何かを思ったりする余裕などないのです。ただ痛くて苦しくてのたうつだけです。

聖書的信仰に関してはよく言われるのは、旧約聖書ではヘブライ語の「エムーナー」は「真理・真実」を意味する「エメト」と関係があるとか、「信じる」を意味する「ヘエミーン」は「エメト」と「アーメン」と同じ語根で、信じるというのはあるものを真実とみなし、その実現に主体的に参与することだ・・・といったことです。しかし、「旧約聖書では『信仰』はまだ神との関係を表わす中核的な表現にはなっていない。また、信頼の意味でそれが用いられるのもほんの僅かな箇所に限られている。」(ゲルト・タイセン著/大貫隆訳『原始キリスト教の心理学』〔新教出版社〕p326)とあるとおり、旧約聖書のヘブライ語では信仰概念が熟しきれておらず人間同士の信頼とか信用、また畏怖と大差ない面もあり、他にも律法の宗教として行為との区別が曖昧になる傾向も見受けられます。
旧約聖書が示す信仰のあり方(旧約聖書では名詞としての「信仰」はイザヤ書26:2とハバクク書1:4の2箇所だけで、信仰は上記の「ヘエミーン」という動詞形で示されている。)は実現参与だと言われているとおり、日本社会で一般に使われる「信じる」とは根本的に意味が違う。要するに聖書的ヘブライ的信仰は、その対象である神の実在およびその働きへの疑いを含まない信心であり、すでに神に知られ神を知っているという人格的関係にもとづく信である。神を知ることは神に知られることを前提とする。対人関係では相手が自分を知らなくても相手を知ることがあるが、対神関係においてはそれは無い。自分が神を知るということは、すでに神に知られていたことに気付くことを意味する。

 

信仰は主観的には確実だが客観的には不確実な意識であり、知識は主観的にも客観的にも確実な意識であるといわれます(『無信仰の信仰』p54)。

「信」と言い「知」と言っても、私たちの神との関係には意識の働きを媒介する面と意識を超えた面があります。そして原崎百子さんも先ほどの引用にあるとおり、「こういう思弁はどうでもいいことであって、今私にはっきり分かっていることは、私の死をも含めて私は神の恵みのご支配のもとにあるということだ。」と述べておられます。

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(岩波版訳ヨハネによる福音書17:3)
「知ることと信じることとは、第四福音書ではしばしば一緒に挙示されている。ここでは、知る対象と信じる対象の間には全く区別がない。なぜならキリスト者は、父がイエスを遣わされたことを信じるように(11:42、17:8,21)、父が唯一まことの神であり、イエスを遣わされた、ということも知る(17:3)からである。イエスの教えが父から来ているということは、知るという点でも(7:17)、信じるという点でも(16:27-30)理解される。一方で真理は知ることの対象であるとすれば(8:32)、他方では信仰は、イエスが真理であると理解する(14:6)。(中略)知るということは、したがって『信仰の構成要素』である。信仰はイエスの言葉と行動に応答し、同時に、信仰が知りつつ理解していくイエスの言葉と行動の意義と意味を問う。しかし知るということは、証明力のある根拠を吟味することから生まれるのではなく、信仰を理解しつつ熟慮することによって生じるものである。信仰が知ることに向けられているように、知ることは常に信仰に関係づけられる。」(『シリーズ 聖書から-2 信仰』〔ヨルダン社〕p220221
「愛する者たちよ、私たちは互いに愛し合おうではないか。愛は神から出ているからである。そして愛する者は神から生まれた者であり、神を知る。愛さない者はかつて神を知ったことがない。なぜなら神は愛だからである。」(岩波版訳ヨハネの第一の手紙4:7~8)
パウロ書簡からも関連聖句を挙げます。
「彼らは神を知りながらも、〔その神に〕神としての栄光を帰すことも感謝することもせず、むしろ彼らの思考は空しいものとされ、彼らの理解なき心は暗黒にさせられたからである。」(岩波版訳ローマ人への手紙1:20~21)※「神を知りながら」は「グノンテス トン セオン」。
「実際、神の知恵のうちにあっては、この世界が〔己れの〕知恵によって神を知ることはなかったので、神は宣教の愚かさによって信ずる者たちを救うことを、よしとされたのである。」(岩波版訳コリント人への第一の手紙1:21)
旧約聖書からも関連聖句を少し引用しておきます。
「そのとき、お前はヤハウェを畏れることを悟り、神を知ることを見いだすだろう。」(岩波版訳箴言2:5)
「わたしは、真実をもって、あなたを娶ろう。そしてあなたは、ヤハウェを知るようになる。」(岩波版訳ホセア書2:22)
「われらは知ろう、ヤハウェを知るために切に求めよう。」(岩波版訳ホセア書6:3)
「わたしは愛を喜び、犠牲を喜ばない。全焼の供犠よりも、神を知ることを喜ぶからだ。」(岩波版訳ホセア書6:6)

新約聖書のパウロ書簡においては、特に「イエス(・キリスト)の信」(ローマ3:22,26他)という表現が問題にされます。原文直訳の「イエス(・キリスト)のピステオースによって」の「の」を主格的属格として訳すか目的格的属格として訳すかであり、岩波版NTの青野太潮氏の訳は後者の立場を採用して「イエス(・キリスト)への信仰」となっており、22節の註でもそちらの訳が圧倒的に多いといわれています。
私の場合はキリストも神の子とは言え神ではなく、人から信仰される対象であると同時に人と同様に父なる神を信仰する立場であるから、別に主格的属格でもよい。

本多峰子さんは、「神の全知、全能、善性を信じて、それと対比して人間の知の限界を意識したとき、信仰の立場として、神の神秘を受け入れることは決して非合理ではないだろう。自らの知の限界を知ることは、それ自体が理性的な営みだからである。」と述べておられる(~「悪の問題にむかう――神学と文学における考察に関する試論」)。しかし続けて、「ただし、ここには、人間の目には見えなくても神の摂理が働いていて、苦難も何らかの形で贖われるか、試練としてわれわれを成長させるものであるという、後述する立場が暗に含まれていることがわかる。」と書いておられることについては必ずしも当らないと思う。「後述する立場」とは「悪の存在は人間の成長の糧となり、人間を完成に導くために不可欠である。(ギリシア正教会に主に受け入れられてきたイレナエウスの立場)」ということを指しているのだろうが、そもそも旧約聖書を読む限り、人間の「善-悪」という判断自体が神のそれと重なる面と重ならない面とがある。たとえば申命記やヨシュア記の「聖絶する」(ハーレム)記事やサムエル記下6章、歴代誌上13章の「ウザ撃ち」の話など。その不可解さをあえて「罪」を原因として説明づけるよりも、不可解は不可解のままに受容するのが自分の立場である。
それと、確かに聖書が示す神信仰には人知を超えた神秘というものがあり、本多さんが言うとおり受け入れるべきことはあるが、そうでないこともある。三位一体の教義のように教会組織が批判を避けるために都合よく神秘のヴェールで覆ったようなものは、むしろそのヴェールを取り除いて然りである。

関根清三氏が、創世記3章の「エデンの園の物語における鳩(のように素直で「汚れのない」女)と蛇」に関して、 <懐疑を抑圧することによって辛うじて保たれる無批判的信仰ではなく、抑圧や束縛から人を解放し、自由で開いた、合理的信仰こそが、鳩の素朴さを超え蛇の懐疑を経た、理解に基づく第二の素朴さとして眼差されていると言えようか。このあたりが、蛇の知恵と鳩の素直のよいバランスと考えられるのではないだろうか。>(~『旧約聖書の思想 24の断章』〔講談社学術文庫〕p139)と述べておられるとおり、信仰における合理性の意義は否定し得ない。行き過ぎた理性の働きという意味での合理性は制限されて然りだが、合理性それ自体を否定することは非現実的であり、思弁家の頭の中だけの戯言にすぎない。

<雨宮慧氏(カトリック東京教区司祭)は、「信じることと疑うこと」というテーマで書いている。雨宮慧氏(カトリック東京教区司祭)は、「信じることと疑うこと」というテーマで書いている。アブ ラハムの生涯は苦難の連続だった。人は生きている限り問題にぶつかる。だから、その問題を解決するために努力しなければならない。「疑い」を表すギリシャ語には、「ディアクリノー(自分の意見と違う考えは受けつけない、が原義)」とは別の「ディスタゾー(心の思いが二つに分かれ動揺する、が原義)」という言葉がある。後者は、信仰者が助けを求めているときの疑いであって、信仰を否定しているわけではない。この「疑い」の場合は、いつか晴れるときが来るので無理やりなくそうとする必要はない。 >(『危機に聴くみ言葉―3 11 日の後で教会は何を聴き、何を語るか』〔日本キリスト教団出版局、2011年〕の第三部「震災に関わりのある説教黙想」より 本書は、説教者のための専門誌「説教黙想アレテイア」の特別号。 マタイ28:17の「疑った」は上記の「ディスタゾー(心の思いが二つに分かれ動揺する、が原義)」の3人称複数アオリスト。

浄土真宗には「二種の深信」というものがある。これは中国浄土教の善導大使の思想といわれる。「機法二種の深信」といい、「機」は自分自身で「法」は如来である。自己と如来(ないしは本願力)の真実相を深く「信知」する重要性を善導は説いたという(安富信哉著『親鸞・信の構造』〔法蔵館〕p3)。
機の深信は「捨機」、法の深信は「託法」ともいわれる。「弥陀の救済意志への手ばなしの信頼こそ、親鸞浄土教の最初であり最後であった」(同書p28)というが、まさに限界状況における信仰は「手放し」でしかあり得ない。なお、「信知」という言葉について補足すると、霊山勝海氏の著書『正信偈を読む』では、「信知は、信心によっていままで知らなかったことをわからせていただいたということです。」と書かれてある。

<「信仰を捨て去れ」という表現は、パーリ仏典のうちにしばしば散見する。釈尊がさとりを開いたあとで梵天が説法を勧めるが、そのときに釈尊が梵天に向かって説いた詩のうちに「不死の門は開かれた」と言って、「信仰を捨てよ」(pamuncantu saddham)という(中略)最初期の仏教は信仰なるものを説かなかった。>(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ 』〔岩波文庫〕)
<釈尊の成道直後の詩によると、「信仰を捨てよ」ということを教えている。それは、ヴェーダ以来の祭祀・教学に対する信仰を捨てよ、というのである。しかしここではブッダの説いた真理、理法に対する信仰を説いているのである。信仰を意味する原語はいろいろあるが、saddhaというのは、理法、教えに対する信頼を意味するのであって、個人に対する狂熱的服従ではない>(同書)

「しかし、もし誰か神を愛するならば、その人は神に知られているのだ。」(コリ8:3
「しかし今や神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして再びあの弱々しくて貧しい諸力へと逆戻りして、またしても新たに奴隷としてそれらに仕えようとするのか。」(ガラテヤ4:9
「ヤハウェよ、あなたは私を調べ、知っておられます。」(詩篇139:1

 

<ジャン・カルヴァン(1509-1564)は著書『キリスト教綱要』(宗教改革の神学を代表する体系的書物)において、堅実な知恵と見なされるべきもののほとんどすべては、神を認識することおよび私たち自身を認識することであると述べている。つまり、私たちは、神を認識することなしには、自分自身を正しく認識することはできないということである。ただし、思考の順序として神と自分とのどちらを認識することが先であるのかは、容易に判断することはできないから、どちらを先に考察すべきなのかという議論は有益なものとはいえない。それはともかくとして、両者の認識に関するカルヴァンの見解を参照して、考察するならば、神と人間との関係は次のようなものとなる。
まず「神への瞑想に思い」を向けない限り、誰一人自分自身について考察することはできない。つまり、自分の本来の在り方に気づくことはない。なぜならば、私たちがこうして生きることができるのは、神の働きによるものであるからである。創造主である神は地球のみならず、大宇宙のすべてを造り、また宇宙と自然の法則を定めた(創世1:1-31;イザヤ40:26-28;44:24;アモス4:13)。人間はこのような法則のもとに生きている。そこで詩篇の詩人は、天空を見上げれば、神の栄光と創造のわざに気づくことができるということを教えている(詩編19:2)。(中略)信仰の視点から見れば、このような光の法則は決して偶然ではなく、神の計画に基づく必然的なものである。(中略)神は私たちの存在の究極的根拠であり、私たちを存在させる力である。したがって、私たちの自己は、固定的実体として自立しているのではなく、神との関係ではじめて成立しうるのである。(中略)カルヴァンはキケロの「どんな野蛮国民でも、どんな粗暴な人種でも『神がある』という確信を持たないものはない」という言葉を引用している。そして、(中略)すべての人には『何らかの神が存在する』という信念が生まれながらにして植えつけられており、また、それがいわば人々の骨の髄まで深く入り込んでいる」と断言している。(中略)厳密に言えば、私たちが認識できることは、神そのものではなく(神そのものはいつも隠されている)、神の働きおよびそれを通して現れる神の存在の現実性に限られる。しかもカルヴァンが教えているように、聖書のみが神の認識の源泉であることを忘れてはならない。>(松田央氏の論文「キリスト教の神(その1)-神論の基礎-」〔Christian God(1) -The Base about the Teachings of God-〕)

正しい自己認識は正しい神認識と相関している指摘には同意するが、問題はかく言うカルヴァンの神認識や如何・・・である。その神認識が教会の教義を前提としており、決して聖書的であると言えない以上、そのような神論を学んだところで本来の自分を知ることなど出来ない。方法論的には参考になるが、実際問題として、神を知ることは個々人の体験に委ねられて然り。各人に於いての正しい神認識と、それに相関して正しい、本来的自己認識が成り立つのである。以下についても同様の批判が該当する。

「カルヴァンの神学も、この神認識と人間の認識を二つの焦点とするような緊張関係の中に構築されたのです。私たちも、神さまがどういうお方であるかを知ることによって、ますます、自分自身について、この人生の意味や世界の意味について深く知ることができます。そして、神の前に置かれている自分自身を知ることによって、ますます神の恵みを悟って、神の御名を賛美することができるようにと招かれているのです。」(~雪ノ下通信ONLINE 教理の窓 カルヴァン『信仰の手引き』を読む)
「カルヴァンは『キリスト教綱要』の冒頭に於いて、私たちが神を知る知識と、自分自身を知る知識とは、互いに結び合った事柄であると言っています。すなわち、本当に神を知ることなしには本当に自分を知ることが出来ないし、また、本当に自分がどんなに罪深いものかを知ることなしに、神を慕い求めることは出来ないと言っているのです。」(~日本キリスト改革派筑波みことば教会 メッセージ2006年09月03日 御言葉に照らされて〔ルカ6:37~42〕)

 

 

<仏教側で、「エメト」とよく似ているのは、「弥陀の誓い」だと思うんですね。これは必ず成就する力を備えたもので、「回向」を通じて人に働きかけ、人の中に仏の国に生れる願いを呼び起こし、「南無阿弥陀仏」に結実する。「弥陀の誓い」は人の中に「願作仏心、度衆生心」を成り立たせ、信心を回向して、成仏に至らせるわけですね。「弥陀の誓い」は本質的に「エメト」的だと思います。しかし、ここでまた違いも明らかになるので、『旧約』の世界では、「エメト」とは神の民の歴史にかかわることなんです。>(八木誠一×秋月龍珉『歴史のイエスを語る キリスト教と仏教の対話のために』〔春秋社〕p167168
八木氏の対話の相手である秋月氏は、「エメト」の自己実現が親鸞の「自然法爾」的であると述べている(同書p168)。結論的には、<「エメト」とは静的な構造や真理ではなくて、ダイナミックな働きです。それは必ず歴史の中に成就する。神の働きでありながら、人間を通して成就する。そういう働きのことをイエスは「神の支配」と言ったんだと思います。>(同書p171)ということのようだ。
<「エメト」というのは真実と訳される名詞ですが、必ずなるもの,必ず実現する力を備えたもののことなんです。(中略)「なるもの」としての能力と働きを持っている。(中略)現実ではなくて実現です。実現的だということです。「歴史の中で必ず実現する」時間的なダイナミックなものです。神御自身がエメト的な神であり、神の意志がエメトである。(中略)「アーメン」という場合、祈りなら祈りに同意するだけでなく、同時に願いを言い表わす。「その通りです。どうぞそうなりますように」と。(中略)同意と願いなんです。すでにそれは、そう願う自分がその実現に主体的に参与することまで含意している。(中略)ヘブル語で「ヘエミーン」というと、あるものを「エメト」だとすることです。たとえば、神の言葉を「信じる」とは、神の言葉をエメトなるものとして受け容れる。それに同意をして、またその実現を願って、かつその実現に参与する。それが、ヘブル的な「信仰」概念です。(中略)「アーメン」「エメト」「ヘエミーン」という三つの言葉は、語根が同じなだけではなく、事柄としても関係がある。>(八木前掲書p164165) 前述のとおり「エムーナー」も「エメト」と同語根の「エム」言葉。「アーメン」(確かに、真実に)は「アーマン」(信ずる、確認する、支持する、堅く立つ)という動詞を語源とする副詞であり、祈祷などでは同意と願いを表わす。ギリシャ語の「アーメン」については、織田昭氏の『新約聖書ギリシア語小辞典』(教文館)では「『確かである,堅くする』意味のヘブライ語根אמן による動形容詞を音訳したもの」と書かれている。ちなみに旧約聖書では、「ヘエミーン」+一文字前置詞「ベート」(「ベ」)+A=「対象Aを信じる」を意味し、「ヘエミーン」+前置詞「ラメド」(「レ」)+A=「事柄Aを信じる」を意味する。「信頼を置く」は「カル」を用いる(申命記28:52、イザヤ30:12)。(~『聖書ヘブライ語』〔キリスト教図書出版社〕第5号p4142
<真理とか真実とか訳されるヘブル語のエメトは、自己実現の能力を持つもののことであり神の言葉が真理であるとは、神の言葉は必ず成就するということである。アーメンとは、神の意志の成就を信じ主体的に肯定することである。さらにこの成就に自覚的に参与すること、つまり神の意志に身を委ねることが信仰(ヘブル語でヘエミーン)にほかならない。>(滝沢克己×八木誠一『神はどこで見出されるか』〔三一書房〕p103

信頼と必要 -「人間中心」から入って「神中心」へと逆転する-

『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』(講談社現代新書)の著者である加藤隆氏は同書の「はじめに」で、所謂9・11事件の三日後にワシントンのナショナル大聖堂で行われた追悼式の中での或るキリスト教徒の演説内容について2点の疑義を示している。

1点目についての問題のテキストは次のとおり(著者の翻訳)。
「・・・しかし今、私たちの前に一つの選択がある。一つの民としてそして一つの国民として、感情的にそして霊的に崩壊し分解するのか。それとも、この戦い全体を通して私たちがより強くなり、一つの堅固な基礎の上に立ち直るのか。そして私たちはこの基礎の上に立ち直ることを開始するプロセスにあると、私は確信する。この基礎とは、神における私たちの信頼である。」
著者は、<この演説者は、せっかく「堅固な基礎」というテーマを提出しておきながら、その「堅固な基礎」は「神である」と単純に述べていない>と不満を述べる。というのはこの著者の前理解では、<一神教にとってもっとも大切なのは、単純に考えると「神」そのものではないかと思われる>からである。しかしそのような思い込みによって宗教者の発言を批判するとおかしなことになる。著者はこのように言い放つ。<演説者が述べている「神における私たちの信頼」ないし「神への私たちの信頼」(our trust in God)とは何かを厳密に定義しようとすると、これはなかなか困難なことになる。しかし少なくとも言えることは、ここで「堅固な基礎」とされているのが、つまるところ「私たちの信頼」だとされていることである。「信頼」(trust)は、こうした文脈で述べられている場合には、単に人間的能力によって実現できる状態だと言えないかもしれない。しかし「信頼」という状態に人間的能力が参与するところが大きいことは確かだろう。つまり「信頼」という状態は、かなり人間的な状態なのである。神との対比においては、人間的なものはやはり不安定であると言わざるを得ないと思われる。とするならば、たいへんに人間的なものであるところの「信頼」などというものを「堅固な基礎」としてしまってよいのだろうかという疑問が生じてくることになる。(中略)演説者は、神を「堅固な基礎」とせずに、神との関連におけるかなり人間的な態度であるところの「信頼」なるものを「基礎」にしてしまっているのである。>(同掲書p78)
この一文を見ていて思い出したのが後述の「信仰」批判者による「信仰」と「信頼」とを区別する議論だ。それはともかく、加藤氏がいみじくも<「信頼」(trust)は、こうした文脈で述べられている場合には、単に人間的能力によって実現できる状態だと言えないかもしれない>と言いながら、our trust in God ということをあまりに人間の自力的な事柄としてネガティブに解しておられることに問題を感じる。
この演説者は共に追悼式に参加し演説する他の一神教、すなわちユダヤ教徒やイスラム教徒への配慮をふまえて述べている。同じ「神」とは言え、その「神」は客体化できない。加藤氏のように「神」そのものを「堅固な基礎」とすべきだったのではと問うてみても、それは同じ宗教内部での表現としてはあり得ても三つの宗教が連帯するための一致点にはならない。なぜなら三つの宗教それぞれに「神」の観方が異なるからだ。「神」そのものは同じであると理念的には言えるが神観は異なるのであるから、実際的には「神」への態度に共通するところを見出すしかない。それが対神関係のあり方であり「信頼」なのだ。それぞれ神観は違っても、同じ神であるとして自分たちが信じ仰ぐ「神」の内に信を置くという誠実な態度によってまさに同じ神が(客観的にではないが平和なる出来事として)現臨するのだ。相手が「神」である以上、「信」は単に人間の能力とか行為にとどまらない。神への信頼はその対象となる神自身から働きかけられて成り立つからだ。すなわち、「人間中心」から入って「神中心」へと逆転する・・・この主客逆転がルカによる福音書10章の「マルタとマリア」の話で示されることであり、それが対神関係の特質であるが、自分がその関係に入っていないと(それも相手である神の働きかけ、導きなしにはあり得ない)わからないことである。
いかに知られた学者であっても自分が対神関係の中に入っていない者がいくら宗教のことや神への信頼云々を説いても説得力はない。その点はおこがましくも宗教学者を自称する田川建三の場合と同様である(加藤氏と田川との最たる接点はストラスブール大)。対人関係では相手がカリスマ的人物なり催眠術使いなりマインド・コントロールや洗脳をする犯罪者でもない限り、相手から働きかけられてその相手を信頼するということは通常ないので、加藤氏のように信じるということが当人側だけで成り立つ事柄だと思い込んでしまう。しかし相手が神の場合は別なのだ。関係は先に相手である神から与えられ、信仰は賜物なのだ。そういうことを知らない人がいくら宗教について分析しても本質に迫ることは出来ない。宗教的実存(少なくとも一神教および浄土仏教の場合)の要諦は信の対象からの働きかけが先立つということであり、恩寵先行、他力ということである。当然、現象的には自力的な面があるが、それも他力によってそのようになし得ているのである。信仰自体がそうである。この点を無視して、いくら宗教を批判し、信仰を相対化しようとしても無駄である。信仰は対神関係が先に成立してこそ持ち得るものだ。信仰に入る(入信)という言い方があるが、より正確には神との関係・交わりに入るのであって、信仰はその関係における主体的側面を指すのである。

2点目についての問題のテキストは次のとおり(著者の翻訳)。
「・・・・私たちは、この国家の当初から神を必要としてきた。しかし今日、私たちは彼を特に必要としている」
著者は、<「私たちは神を必要としている」ということは、神と人との関係は、人(「私たち」)の都合によって左右されるということを意味しないだろうか。(中略)神と人との関係について「私たちの必要」を基礎にしているために、神と人との関係の有無、あるいは<特別に>神と人との関係が問題にされるかどうかは、人の側の都合に依存しているのである。神は一つであるとされている。一つである神は、厳然としたものであるかのように思われがちである。しかしここでは、その一つの神がたいへん人間的に捉えられているということができるだろう。つまり神は、人間の都合によって捉えられているというべき面が強いのである。」(p910
e’e needed God ということについて著者がわかっていないのは、演説者の他宗教者への配慮であり、さらにここでは宗教関係外の人々への配慮も感じられる。この追悼式は大統領なども出席した公的なものであり、いかにプロテスタント国のアメリカといえども世界的に放送されるし、宗教色をあまり強く出すことは慎まれるべきだ。だから演説者はある意味、人間の理性を中心とした語り方を心がけたのだと思う。「必要」というのはそういうことだ。しかし宗教者においてもこの言葉は聖書用語でもあり、決して神を「人間の都合によって捉え」ているということにはならない。むしろ主体的に神(との関係)を必要とすることが信仰なのだ。そして当然のことながら、この「必要」も対象である神からの働きかけを抜きにして生起することは無い。神を捉えるのではなく逆に神から捉えられている人間が人生における対神関係の必要性を実感するのだ。それが肉的・打算的なものか霊的・実存的なものかはともかく、縁なき者は度し難しというが、縁もゆかりも導きも得られていない者はその必要すら感じない。それが宗教というものだ。自分の内に神信心の必要を感じない者にはいくら文献を読み漁っても、所詮、宗教の核心はわからない。ここでも「人間中心」から入って「神中心」へと逆転するという主客逆転の宗教的真理(~ルカによる福音書10章の「マルタとマリア」の話)の無知が指摘されねばならない。

さて前述の信仰批判者の主張だが、その典型は田川建三が自著の『新約聖書 訳と註3 パウロ書簡一 』のガラテヤ書の2章16節の註で、異常に長く書き連ねているものである。その主旨は従来の福音主義教会における「信仰義認」教説批判のようだが、まさに重箱の隅を突っつくような、本質から離れたどうでもよい文法講釈である。たとえば他動詞に由来する名詞の属格には対格的用法があるが自動詞に由来する名詞の属格は主格的用法になるといったこと、そして日本語の「信じる」は他動詞だがギリシャ語の「ピステウオー」は自動詞だの、パウロにはキリストを対象として信じるという表現は2例のみでキリストを主語とする「信(実)」という表現が多いだの、神に対しても「信仰」すると訳せる表現は「信」の動詞の後に前置詞がくるので原意的には「信頼」すると訳す方が適していることだの・・・大体そんなことである。
「はじめに関係ありき」!神から与えられた活きた交わりがあってはじめて聖書の言葉も理解できる。聖書が対神関係の媒体であるという意味は、聖書なしに対神関係が成り立ち得ないということではなく、はじめに対神関係が先ずあって、それを自覚に及ぼす上で聖書の文言が用いられるという意味である。
すでに神の恵みによって対神関係に入っている者が聖書を読むことによって、よりいっそう神につき、その関係の内容についての認識が深まるのである。罪についても然り、赦しについても然りである。いきなり聖書を読めば誰でも神を信じるとは限らないように、聖書はすでに神に導かれて対神関係に入った者が読んで意味を持つものである。そうでない者、仏教的に言えば「縁なき衆生」がいくら聖書を読み、その解説を学んでも機根が無いので理解できない。田川建三には信仰は無く対神関係は無い。だから、公けにルター以来の福音主義的信仰を侮辱できるのだ。いくら文献学などの知識でもって聖書を重箱の隅をつっつくように分析したところで、そこから導き出されるものはしょせん仮説であり想像の産物にすぎない。それを象徴しているものが田川の「逆説的反抗者」のイエス像である。実にナンセンスである。田川の影響を少なからず受けていると思われるF牧師の「説教要旨」では、「長血を患う女性」は「誰かから信頼され、信用されるにたる事実、現実、有様」としてのピスティスを持っていたから救われたということになる。これは救いに於いて人間側の要因であり、言わば「徳」のようなものであって、「信頼を呼び起こすもの」だの「ひたむきさ」だのと言っているが、結局、本人に何らかの条件が備わっていなければ救われないともとれる文言である。「信仰」と言わず何と言い換えてみたところで、結局、その何かを持っていない人は救われないという話になる。この「長血を患う女性」の物語では女性に「ひたむきさ」がなければ救われなかったということになる。人間の資質を問うような考え方は福音的ではない。当人が救われるか否かの決め手は人間の側にあるのではなく神の側にあるというのが聖書の教えなのだ。それと、F氏のように「信仰」を相対化しようとする人たちは、聖書における救いというのは万人にとってありがたいものだと思い込んでいるようだが実はそうではないのだ。イエスの「種まきのたとえ」などもそのような観点から読まないと奥義が見えてこない。福音は文字通り良いものではあるが、神に導かれていない人、神との関係に入れられていない者にとっては無用のものでしかない。イエスの言う救いとはそもそも来世利益を得ることではなく神の支配に入ることである。聖書における救いは人間主導ではなく神主導である。ヨハネによる福音書6章44節では、「私を派遣した父が引き寄せるのでなければ、だれも私のところに来ることはできない。」(岩波委員会訳)と言われているのであって、イエス・キリストのもとに来るかどうかは父なる神の導きを与えられるかどうかにかかっている。救いの決め手は「ひたむきさ」だとかいった人間の態度の問題ではない。キリスト教的救済には縁がなくても、仏縁など他の信心の道に機縁があるかも知れない。その因縁だの機縁だのもすべて創造主の聖なる定めによるものである。この世に多種多様なる宗教があることもまた全くの偶然ではあり得ない。
私は基本的に神(ヤハウェ)中心の包括主義であり、救済宗教はそれぞれに救い主を持つが、キリストだけが救い主である必要はないと思う。ただし神は唯一、ヤハウェのみである。
自分の人生に意味を求める者が創造信仰へと導かれやすい。「求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。」(マタイ7:78)、「凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、さらば得べし。」(マルコ11:24)イエス・キリストに対して継続的に「求める」意志の働きは利益を求める打算的動機だけでは続かないし自力ではあり得ない。生来、神との関係に置かれた者でなければ到底、執拗に求め続けることは出来ない。理性に於いて理論より実践が優ることもないだろう。F氏の「ひたむきさ」だけでは限りがあろう。「長血を患う女性」の場合、神御自身が彼女をイエスのもとに導いて下さらなければ、イエスの着物にふれることはできなかった。イエスにふれるということ即ちイエスから力が出て行くということは、イエスを通して神の力が彼女に及んでいたということを意味する。物語に時間的順序の前後へのこだわりは必ずしも適さない。彼女が大胆な行動を起こしたのも、すでに彼女が神との関係に入っていたことを示している。あえてF氏の言うようにイエスが、「あなたのひたむきさがあなたを救った」という意味で語ったとして、その「ひたむきさ」もまた神に与えられた意志であり他力だということになる。人は罪ある限り、自力だけでは救われない。神の他力なしには救われない。「ピスティス」を「信仰」ではなく「真実」と訳そうと「信実」と訳そうと「信頼」と訳そうと「ひたむきさ」と訳そうと・・・他に何と訳そうとも、それが神の賜物であってこそ救いにつながる(青野太潮氏は、その「ピスティス」について、<「信実」と訳したいが、まだ日本語として熟していない。>と述べておられる《『新約聖書 パウロ書簡』〔岩波書店〕p11注八》)。聖書的には、人間に属する徳のようなものでは救われない。罪の働きを受けるからである。

<キリスト教における信仰の原語としての【pistis】は、元来人間が人間を信じるということを合めて、きわめて広義の信頼を意味するもので、それ自身としては直ちに高きを仰ぐという意味はもっていないにもかかわらず、それを信仰と訳したことは、まことに当をえた翻訳であるということができるのである。>(~龍谷大学論集・第410 抜刷・昭和52525日発行 信楽峻麿氏論文「親鸞における信の性格」より)

牧師が文法主義的傾向に陥る一因はキリスト教が聖書に過剰なる権威を置くことにある。特にプロテスタントの聖書原理が問題であり、現代ではK・バルトのように聖書に証しされたイエス・キリスト以外神の啓示を認めないという狭い考え方も出てくる。聖書を公理化することが原典主義ないしは文法主義につながる。もちろん直接啓示を重視する立場、フレンド派のように直接無媒介を本来的であるとみなすことも歴史的現実を軽視した極端な考えである。しかし、<聖書=正典=無謬の神の言葉=信仰生活の絶対基準>といった図式を固定したのでは、却って田川の如き宗教批判者を思い上がらせ、つけいるすきを与えることにもなる。
「聖書は証言であり、神認識の媒介であって根拠ではないことが明瞭にならない限り、換言すれば、直接聖書に依存しない神認識の可能と現実が示されない限り、聖書を根拠としてその上に立つ教会は危殆に瀕するのである。神認識とは、聖書的観念の単なる受容ではなく、存在の根本にかかわる事実の認識と納得でなくてはならないのだ。」(滝沢克己、八木誠一編著『神はどこで見出されるか』〔三一書房〕p48

「賭け(る)」を信仰の説明に用いる主旨は信仰が理性を超えた冒険的決断的性格があることを示すことであろう。打算的目的を抜きにしてこそ信仰の比喩として使える言葉だ。しかし「賭」という漢字の字源(貨幣・お金を意味する「貝」+集めることを意味する「者」+点)からみても「賭け(る)」の意味は損得や勝負事が不可欠である。だからそうまでして「賭け(る)」という言葉を使わなくても、「懸け(る)」と言い表わせばその方がより適切な表現になると私は主張している。信仰は「賭け」ではなく「懸け」である。そしてかの『パンセ』の翻訳で「賭け(る)」と訳されているフランス語が日本語の「賭け(る)」という意味にどこまで重なるのか知る由もない私は、もはやパスカルはどうでもよいから、日本語で「賭け(る)」という言葉を聖書的信仰の定義に使うのはやめるべきだと言い続けたい。より適切な「懸け(る)」という言葉がある。ただし「懸け(る)」の主旨はイエスと共に十字架に懸けられるという意味での「自己限定性」であり冒険的決断性を弱いかも知れない。しかし宗教的実存は自力の前に他力なのだ。「いのちがけ」は「命懸け」・「懸命」であって「命賭け」ではない。「いのちがけの信心」は「命懸けの信心」、すなわち自身のすべてをゆだねる(=懸ける)信心である。神を信じる「信」とは救われるか否かという結果もろともを神の意志の働き(エメト)にまかせきることなのだ。すなわち御利益を目的とし、その目的を実現する手段としての信ではなく、その信ずること自体が救いとなり喜びとなること、信ずること自体が目的であるような対神関係こそが生ける神との活きた交わりと言える。すなわちそれは神との関係において自分の存在と人生に意味が与えられるという恵みであり、他者との優劣比較から自由にされるという福音である。その現在こそが最大の御利益なのだ。その意味での「信仰」は対神関係にある状態であって行為ではない。たとえば「長血を患う女性」の物語を通して、自分を彼女の立場に置いて追体験するのである。神から与えられた賜物としての「信」は、イエスが「あなたの信仰があなたを救った。」という場合の「信仰」に典型的に示されている。イエスの救いの宣言につながっている以上、F氏の言う、女性の「ひたむきさ」も当人の自力のはからいでは済まされない。あくまでも賜物としての信の実として解してこそ聖書全体の主旨に合う。この他力の面を看過してはならない。あなたはすでに父なる神(=創造主ヤハウェ)との関係に入っているのだということ、その交わりの福音こそ「あなたの信仰があなたを救った。」というメッセージの主旨である。

神の子キリストの十字架の出来事において神御自身が死に至る苦難を受けられたという意味ではないが、自存し得る神にとっては創造の業そのものが御自身を関係存在としてある意味、自己限定されるという大冒険だったと言える。その中心が神の子キリスト・イエスの生涯である。だから他力信仰は恩寵先行の世界なのである。真宗の信心こそ他力の信であるから「賭け」ではないと言える。
<問. 要するに、信仰はわたくしの知識の延長線上にあるのではなく、そこには飛躍がある。知識を越えたところに信仰があるということでしょう。信仰は一種の「かけ」(賭)であって、本願を信じて救われるか救われないか、そんなことはわたくしにはわからない。だが、自分は本願を信じて救われるという方にかけるのである。こう理解してよいでしょうか。
答. それはたいへんな誤りであります。信仰はたしかに単なる知識の延長ではありません。けれども、あなたがいまいわれるような「かけ」ではありません。はっきりと信知させていただくのであります。>(~webサイト「わかりやすい 宗義問答」)

 

信仰は「たといそうでなくても」(ダニエル書3:18)勝ちであり、賭けは「もしそうでなければ」負けである。

 

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)