矢内原忠雄氏の三位一体論

person というのは generic name 類的名称であってspecific name 種的名称ではない。父も子も聖霊も person と言っているのは非常に不正確な表現である。(中略) persons 人格が三つあると言わないで one person 一つの人格と言えばよさそうなものであるが、そう言わないのはなぜであるか。それは言い表わしの便宜あるいは推理の便宜から起った言葉であって、言葉にすぎない。三つ別々のものがあるわけでなしに表現および推理の必要から起ったことである。(中略)前々から言っているように three persons という表現は非常に適切であるとは言えない。いかなる人間の言葉をもってしてもこれを適切に言い表わすことはできないのだが。神は single 単一ではない、しかも三つあるわけでもないということを表わすために、一つの神にして三つの persons 人格と言っている。」(『土曜学校講義(三)アウグスチヌス 三位一体論』〔みすず書房〕第十講 第七巻四章 )

 

 

 

以下、『矢内原忠雄全集 第九巻』(岩波書店)

338頁~341頁

 

訣別遺訓に現れたる三位一体論

 

一 三位一体論とは何か

 

 

基督教神学に三位一体論といふ教義がある。父なる神と子なる神と御霊なる神とがあるが、併し三つの神があるわけではなく、神は唯一つである。唯一つではあるが、単一ではない。一にして三、三にして一、神は三位にして一体である、といふのである。之によつて基督教の神観は、一方に於いてユダヤ教の単一的な一神教と区別せられ、他方に於いて異教の多神教と区別せられるところの、豊富なる内容を有つ一神教となるのである。

三位一体論の中心問題はキリストの神性である。キリストの神性を肯定すれば基督教の神観は三一神観(Trinitarianとなり、然らざれば単一神観(Unitarianとなる。単一神観は論理簡明なるが如くであるが、キリストの神性を認めざるが故に贖罪の信仰なく、基督教をば単なる合理的人道主義的宗教たらしめ、啓示宗教としての力を失はしめる。人を新に生れしむる力ある信仰は贖罪の信仰であり、贖罪の信仰はキリストの神性を要求し、キリストの神性は三位一体の神観を必要とする。三一神観をして単一神観に対し勝利を得しめたるものは、人の側に於いては贖罪信仰の実際的要請である。併しながら三一神観は人の要請によつて造り出された神観ではなく、神の本質に関する神御自身の啓示に基く神観である。神学教義としての三位一体論は、聖書に現れたる啓示の体系化に外ならない。

 

 

三位一体論の論理的構造は次の如くである。

(1)父は子を生み、子は父より生れる。従つて父は子でなく、子は父でない。而して父と子とを結びて一ならしむるものは御霊である。この故に、父と子と聖霊とは夫々別のペルソナ(Persona1である。

(2)父と子と御霊とは、その本質・実体・若しくは本性(essentiasubstantianatura)を一にするが故に、神は一であり、且つ一なる神に於いて三つのペルソナは全く相等しい

右の中第一の点はアリストテレースの弁証法哲学を含むが如くであり、第二の点はプラトン哲学の神観と通ずるものがある。2ハルナックによれば、三位一体論はイエスに於ける神の顕現の基督教信仰と、之ら古代哲学の遺産との特異なる混合であり、プラトン哲学及びアリストテレース哲学がスラヴ民族並にゲルマン民族に運ばれた車輛となつたものであるといふ。3 

〔1〕アウグスチヌスの言ふ如く、父なる神、子なる神、御霊なる神をペルソナ(Persona)と呼ぶことは完全なる名称ではないが、他に適当なる名称なきが故に、不完全なる表現は無表現に勝るとの趣旨によりこの語を用ふるに過ぎない(アウグスチヌス『三位一体論』第五巻第一〇節)。「ペルソナ」は普通「人格」と訳するが、これ亦訳語として完全とは言へない。本稿に於いては時に「人格」と訳し、時には試みに「位体」と訳した。之は「実体」(substantia)に対する意味である。

〔2〕プラトン哲学に於ける「一者」の自己充足性、並に「一者」と「理性」と「霊魂」との一体性については『嘉信』第四巻第三号一二二頁、一二七頁〔本全集第二十二卷アウグスティヌス『告白』講義二十四講(一三)(一四)および(一七)〕参照。

〔3〕arnack,A.,Dogmengeschichhte,Ⅱ.S.304

 

 

「三位一体」といふ語は、紀元第二世紀末テルトリアンによつて始めて用ひられたが、第四世紀に至り、キリストの神性を否定するアリウス派の流行に対し、アタナシウスは奮然起つて之を論駁し、遂にニケアの宗教会議に於いてアリウス派は異端と宣告せられ、キリストの神性従つて三位一体の教義が公認せられた。而もアタナシウスは尚ほ「父は子よりも大なり」との主張を把持したのであつた。三位一体論の完成せられたのは、アウグスチヌスの不朽の名著『三位一体論』によるのであり、此書に於いて父と子と御霊との全く相等しき神性が論定せられたのである。

このやうに三位一体の教義は神学者により形成せられたのであるが、その素材は勿論聖書の中に見出される。コリント後書末尾の祝福の言葉1は、年代的に見てその最も旧きものであり、マタイ伝末尾のバプテスマに就いての言葉2も亦、他の一例である。即ち初代教会に於いて、既に素朴なる三位一体の信仰があつたものと思はれる。而して之はまた初代教会が勝手に作成したる信仰ではなく、キリストの教に基いたものであらう。たとひキリストは之を教義的に教へ給はなかつたとするも、三位一体論の原型はキリスト御自身の自覚の中に潜んだものと信ぜられる。これを最も明白に示すのものは、ヨハネ伝に記録せられたる『訣別遺訓』である。私はここに聖書全体に亙りて三位一体の論証を為さんとするものではない。ただ『訣別遺訓』に現れたる限りに於いて、イエスの自覚としての三位一体を考察して見ようと思ふ。

1「願はくは主イエス・キリストの恩恵、神の愛、聖霊の交、汝ら凡ての者と偕にあらんことを。」

2「然れば汝ら往きてもろもろの国人を弟子となし、父と子と聖霊との名によりてバプテスマを施し、云々。」

 

 

付記 以下は、「三 子なる神」の2より(345~346頁)  

 

イエスは父と本質を一にし給ふ神なることを認むるとするも、果して彼は父と等しき大さの神であるか。彼は父より出でたるものであるから、父より小なるものではあるまいか。現に彼自ら、「父は我よりも大なり」(一四の二八)と言ひ給うて居るではないか。アリウスはこの言に基きてキリストの神性を否定したのであり、アリウスに対抗してキリストの神性を擁護したるアタナシウスも、此の言に基きてキリストは父よりも小なる神であることを主張した。子なる神が父なる神と全く相等しき神なることは、アウグスチヌスに至つて始めて論証されたのである。

アウグスチヌスによれば、「父は我よりも大なり」といふ事は、「我は父より出でたり」といふ事に等しい。之は生みたる者と生れたる者、出で来りたる源と出でたる子との関係を表現したものであつて、能力、権威、栄光等の大小が父と子との間にあるのではない。例へば輝は光より出るが光より小なるものでなく、光と全く等しきが如く、子は父より出でるがその神性に於いて父より小なるものでなく、全く父と相等しい。「唯一の真の神にいます汝と、汝の遣し給ひしイエス・キリスト」(一七の三)といふ御言も、「唯一の真の神」は父だけであつて、キリストはそれ以下のものであるかの如くに解すべきではない。「唯一の真の神」とは三一の神であり、三一の神はその内部的関係に於いて父と子と聖霊との三つの位体である。三つのペルソナは各〃神であり、而していづれも等しく完き神であるが故に、その一は他の二を含む。この意味に於いて父が「唯一の真の神」である如く、子も「唯一の真の神」であり、御霊も「唯一の真の神」であり、而して神は三位一体なる「唯一の真の神」である。従つて唯一の真の神なる父が子を遣すといふ時は、父と子と御霊と一つなる神が子を遣すといふ意味に解釈しなければならない。

アウグスチヌスは三位一体論の難関たるヨハネ一四の二八、及び一七の三を、このやうに説明した1恐らく之が三位一体論の最も精緻なる構成であらう。前にも述べた如く、イエスは神学者のやうに、己が神性の自覚を論理的に構成し給はなかつた。ただ彼の明白なる自覚は己が父より出でたる子である事と、己が父と全き一つである事とであり、彼はこの自覚の中に生き給うたのである。三位一体の教義は、要するにこのイエスの自覚の体系化に外ならない。

1〕『三位一体論』第六巻第十節、其他。

 

 

以上の矢内原氏の叙述の中で、「アリウスに対抗してキリストの神性を擁護したるアタナシウスも、此の言に基きてキリストは父よりも小なる神であることを主張した。子なる神が父なる神と全く相等しき神なることは、アウグスチヌスに至つて始めて論証されたのである。というのは史実誤認の疑いがある。アタナシオスがヨハネ福音書14:28について述べたことは、御子は御父から生まれた者として御父と別の存在であるということであり、それは「ホモウーシオス」(同質)と矛盾しないからだ(~『アレイオス派駁論』)。

正統的キリスト教の教義は閉鎖的な論理であり、その閉鎖系の中でのみ通用し得るもので、上記の件もその域を出ない。だから、どいでもよいと言えばどうでもよいのである。

いずれにせよ、キリスト教が歴史的宗教だと言うなら、その「歴史」はイエスが神格化などされない現実の歴史でなければならない。つまり史的人物としてのイエスが「神(関係)」の啓示者であり仲介者であることをテーゼとしてこそ、キリスト教は歴史的宗教であると言えるのであり、その場合、神論としての「三位一体」は成り立たない。すなわち「父なる神」は言えても「子なる神」とか「聖霊なる神」などは言えないからだ。三者一体も言えない。「聖霊」は人格的存在ではなく、あくまでも「神」の働きを意味するからだ。

 

 

 

 

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)