続・コヘレトの知恵とイエスの神

青春の日々にあなたの造り主を思い起こせ。災いの日々が訪れて、もはやこれらに私の楽しみはない、などと言う歳〔月〕が近づかないうちに。」(岩波版〔月本昭男訳〕 コーヘレト書12:1

私自身は、もはや青春の日々は遥か彼方に過ぎ去り、まさに時々、「楽しみはない」とつぶやくような老境に近づきつつある人間です。ところで上記の言葉は必ずしも若者向けというわけでもなく、次のようにも訳されます。

あなたの壮年の日にあなたの造り主を憶えよ。災いの日々が来て、私にはそこには何も楽しみがないと言う年月が近づかないまえに。」(西村俊昭著『「コーヘレトの言葉」注解』p521) 

上記の月本訳で「青春の日々」(新共同訳も同じ)と訳されている言葉は元気な時、意気盛んな時を意味し、ことさらに若い時に限られないそうです。コーヘレトが若さ・青春時代を相対化していること(11:10)も考慮するなら、要は人生に於いて元気な時期、特に今の時代ならエイジレスで解釈してもよいでしょう。自分が造られていることを自覚することは、足りていることを自覚することです。その自覚に至るには余計な思考を止めて諦め(=明らかに究め)なければなりません。

それは人生に於いて遅すぎることはありません。自力ではなく創造主の御霊・他力の働きによってこそ可能です。その働きは、神関係にある人それぞれ時機に適って与えられるのです。

私は低所得者層なので日々の生活は心身ともに、けっしてラクではありませんが、人生に希望を持って生きてゆきたいのです。それは現世に絶望したから来世の暮らしに期待する・・・といったことではなく、あくまでも現実の中に希望を求めること、その活力はつかず離れずの神関係から・・・というのが、私が旧約聖書のコーヘレト書から学ぶ最高の知恵です。

老子の教えとして有名な「知足(ちそく)、知止(ちし)」(44章.「止足(しそく)の計」といわれる。「知足」は33章、「知止」は32章でも言われている。また、「知止」は四書のひとつである「大学」の冒頭文に「知止而後有定、定而後能静」〔=止まるを知って後、定まるあり、定まりて後、よく静かなり〕云々とある)は東洋ならではの現実的知恵とも言えますが、創造神信仰を前提としない思想では、せっかくの知恵も額縁に入れて掲げられるにとどまります。人は被造物としての限定性(=生得的な神関係に置かれている〔その意味において〕選ばれし者は、イエスと共に十字架に磔にされているという言葉に象徴される「神の前の単独者としての被限定性」)を自覚することによって、さらに個々人の置かれた限定性を弁えることによって、「神」の賜物を有効活用できます。範囲が定まらないと浪費することになります。

日本国と同じ「東」洋でも、「中東」世界に位置したコーヘレトなる人物が、造り主なる「神」との関係にもとづいて語り示している「知足・知止」こそ、信者の暮らしの中で活かされる知恵だと思います。日常のささやかな楽しみ,悦びを「神」の賜物として感謝し受けとめてゆく信仰です。余計な知欲は止めて「神を畏れる」姿勢を心がけてこそ人生が豊かになります。その意味で私は「知止」(止めるを知る)より「止知」(知を止める)ことの意義を感じます。無論、あらゆる「知」を止めるわけではなく、自分の対神関係において有意義であるか否かを神の御霊によって判別し取捨選択するのです。

上記の「知止而後有定、定而後能静」は至善の境地にとどまることにより平安を得るということですが、西洋では実に創造主なる「神」こそが「至善至高」といわれてきました。「神」との関係に止まり活かされることこそ平安に生きる「道」なのです。この西洋的直観と東洋的直観との二重性がコーヘレト書に示されています。

新約聖書とのつながりに於いては、その「道」を身をもって示した人が、神の子・キリストと呼ばれたイエスだということです。イエスは「神」の啓示者(すなわち実体的体現者)ではなく「神-人関係」の啓示者(すなわち作用的体現者)です。

イエスが「主」とか「神の子」と呼ばれたのは、彼が「神」から選ばれた独一無比の媒介者・仲保者だからであり、「神」と同じ絶対存在という意味ではありません。「神の霊」に充たされた特別な人であったにせよです。ある種の「神性」を認め得るとしたら、彼の本質ではなく、彼を充たしていた「神の霊」の本質を指す。しかもその充満せし御霊の働きは、我ら一般人に宿るそれとは区別されて然り。なぜなら、イエスに内住せし御霊はイエスに神の本質(絶対愛)を顕現せしめ「絶対的」存在たらしめたが、我らに「絶対」はもちろん「絶対的」もあり得ず、終末においてはイエスと同様に神性を得た復活が預言されてはいるものの、現世では人は決して神性など有し得ないのである。されどイエスは現世において「絶対的」レベルでの神性を得た。ここが同じ「人」ではあっても我らとは根本的に異なる。それはイエスが実体的に先在の神の子だからではなく、彼に宿った御霊の働きが特殊だったからだ。そこには創造主のイエスに対する特別な選びの秘義がある。そしてその意味ではイエスの場合、「(原)罪」はなかったとも言えるが、彼自身は充満内住せし御霊の働きにより、いかに「絶対的」ではあっても、我々と同じく煩悩を抱える相対存在だったのです。そうであってこそ、キリスト教は「歴史的」宗教だと言えます。
教会主義的キリスト教では絶対性(=神性)と相対性(=人性)との両性をイエスが有っていたと見ますが、そういう見方は聖書の啓示とは異なります。イエスを神格化することは、キリスト教が歴史的宗教といわれる、その「歴史」性に反することになります(神学者などは「歴史」を多義化しますが、それは護教論的詭弁にすぎません。私にとって「歴史」の現実は一つしかありません)。

イエスは架空の人物ではなく、我々がおよそ2千年前のパレスティナにタイム・スリップしたとしたら、そこで会うことが可能な人物であって然りです。彼が我々と異なるのは前述のとおり「神の霊」に充たされ、特別な力を持っていたことです。しかし、贖罪の死も復活も彼自身の業ではなく「神」の業・その「聖霊・他力」による出来事であり、それが「福音」です。

形而上学的・抽象的な老子的「道」とは異なり、歴史的・具体的な「道」が福音書に示されているイエスの生涯です。

「われは道なり、眞理(まこと)なり、生命(いのち)なり、我に由らでは誰にても父の御許にいたる者なし。」(ヨハネ伝14:6

イエスはまた、「我に居れ」、自分の内にとどまりなさいと言っていますが(同、15:4)、それは彼が最終地点という意味ではありません。彼は、源(α)であり究極(Ω)である「神」(黙示1:8)との関係を現実化する唯一の「道」であるという意味であり(αとΩをイエスにも適用している点は批判的に解釈すべし)、我々はイエスのところで止まらず、被造の万物が帰一すべき「神」に向かわなければならないのです(Ⅰコリ15:28)。

整理しますと、「知足・知止」は老子で有名ではありますが彼だけが発見し教えたわけではなく、同様の主旨は聖書の中にも示されているということ、その典型がコーヘレトの知恵であるということです。そしてこの知恵は、この世が絶対他者である「神」によって創造され摂理されていると信じる宗教に於いてこそ、単なる格言に止まらない実際的意義を現すのだと思います。その意味では、コーヘレトの宗教は生活宗教です。

 

1:2 空の空、とコーヘレトは言う。

    空の空、いっさいは空、と。

  3 日の下で労苦するいっさいの労苦は

    人間にとっていったい何の益があろう。

 

まさにそうだ。今日のような暑い日に外で働く者はたいへんだ。西村氏の注解では、2節は<「空の空(ハベル ハバーリーム)」とコーヘレトは言った、「空の空(ハベル ハバーリーム)一切は空だ」。>、3節は「日の下で、人の労するすべての労苦に 人にとって何の益があるか。」と記されている。

「空」(hebel)は「色即是空 空即是色」の中立的かつ抽象的「空」に非ず。

<伝統的には「空しさ」と訳されるが、文字通りには「霧」や「息」を意味する。(中略)コヘレトはこれによって、人生が空しく、無意味で、取るに足らず、不毛であり、期待できない、などと言っているのでは決してない。むしろ、彼のメッセージは、すべてが霧の如く把握しがたい以上、絶対安全な原則はなく、成功を保証してくれる処方箋もなく、人が頼れるものは何もない、ということだ>(『インタープリテイション日本版 特集 コヘレトの言葉』〔第63号〕p1415 ※以下、『インタープリテイション』からの引用は「IP-J-63」と表記。)そうで、西村氏の注解では<元来オノマトベ(擬声語)のようである。元来の意味は、息、風(イザ5713「ものを運ぶ風」[ルーアッハと並行]、箴216「吹きはらわれる煙」)であろう。しかし聖書におけるその殆んどの用法はメタフォリック(隠喩的)である。ウルガタはvanitas vanitafumLXXは〔※〕、漢訳は「虚空的虚空」と訳し、伝統的にこの線にそって訳されることが多い。しかしアクィラ、シュンマコス、テオドシオンは〔※〕(「息、蒸気」)という語に訳している。>(※はギリシャ語表記になっており、前が「マタイオテース マタイオテートーン」。「マタイ」と言っても使徒名の「マタイ(オス)」とはスペルが違う。後は「アトモスかアトミス」。)と言われていまして(p56)、要するに価値中立的というよりもネガティブな意味の用語です。私見では「コヘレトはこれによって、人生が空しく、無意味で、取るに足らず、不毛であり、期待できない、などと言っている」とみてもよいと思う。ただしその前提は創造主なしの場合は、です。彼には創造主に対する信仰があって、それは不即不離の関係ですが、この一点によってかろうじてそうしたニヒリズムに堕ち込まずにいるのだ。彼はむしろ創造信仰を前提としてさえも人生の空しさや無意味さを語る。それほど現実の不条理性を感得していたということ。言わば、その不条理な現実は彼の神関係の領域にまで浸潤してくるほどに深刻だったということだろう。そしてコーヘレトが実際に「ヘベル」に込めた意味に一番近いのは、(ウルガタ訳がなしたほどには)「むなしい」と訳されえないと指摘するエルザ・タメズ/金井美彦訳(~「IP-J-63p30)が言うところの「倦怠」とか「欲求不満」とか「幻滅」といった気分なのだろう。「ヘベル」の文字通りの意味は「ため息をつく、(風が)吹く」で訳すのにふさわしくないと言われている。

『新共同訳旧約聖書略解』の木田献一氏の、<コヘレトは、何度も「空」である現実を「見極める」という言葉を使っている。空であることを見極めた上で、無常の現実に適切に対応すべきだと言うのである。この点で、コヘレトの思想は仏教の「空」の思想に近い。聖書の思想は、単純に仏教と対立するものではなく、むしろ外見よりは、はるかに深く共通する面を持っている。>というのは、これも仏教に通じないキリスト教徒ならではの誤解乃至は極論的観があるので信用することは出来ない。その後の「ヘベル」についての解説・・・「蒸気、気息などの意で、転じて実体のないはかない現象を意味し、比喩的に虚栄の意味で使われることもある。すべてのものは、変化しない実体を備えてはいない。そのことを認識せよと言うのである。」
も、少なくとも後半部分は信用できない。<「空しい」という形容詞ではない>とは言え、「空」と訳すよりは「空しさ」と訳す方が適切だと思います。岩波テキストの「補注 用語解説」でも「空(hebel)」は<原意は「気息」.転じて事物の「
空しさ」や「はかなさ」を表し、「偶像」について言われることも多い(王下17:15他).>とあるからコーヘレトの語る「ヘベル」にはネガティブな意味が込められているのだ。前述のエルザ・タメズも<彼が見るものはすべて「むなしい」。ほとんど何事も彼の否定的な判断を逃れることができない。>と述べている。否定的であることに変わりはないのだ。これは一種の「世界認識」であり、「無目的,無意味」という虚無的な表現であろう。「ヘベル」はそのような現実経験に根差す「空しさ」という否定的意味であろう。仏教の価値中立的観念である「空」などとは違うのだ。ちなみに仏教の「空」はサンスクリット語の形容詞「シューニャ」で、その名詞形は「シューニヤター」だそうだ。龍樹の空観では、最高の仏である如来だけが自性であり、その他は無自性であって、存在をも含む一切の現象は関係性によって成り立っているとしたそうだが(=「縁起」)、コーヘレトの世界観も、自性,無自性といった観念はともかく、存在感というか実在感というのは「造り主」なる神以外にはあまり感じられていないかのようではある。その「神」(エロヒーム)の実在感さえ伝統的神観と比べれば不即不離の距離感で希薄な感じがする。しかしこうした印象にとどまっているなら、おそらく表面的な読みなのだろう。そのことを示唆する一例としてコーヘレトの自我論がある

コーヘレトには個人の人格・思想が余りに強く表面に出ている。ただしコーヘレトの自我は、意識野を制限し、現実を無視することによって自我を破局へと導く、近代の自我とは異なる(ノイマン『深層心理学と新しい倫理』参照)。またこの自我は解体、拡散、また対象の転移等によって、解消する自我でもない(西村、1981215頁参照)。従ってこれを箴言と呼ぶにはふさわしくないと考えたからであろう。確かにコーヘレトは箴言を利用した。しかしコーヘレトの文体はそれらを超えて、極めて個性的である。特に「私」が表面に出ている点で、旧約の他の文書に見られない特色を有する。>(西村氏前掲書p51

つまりコーヘレトに仏教的なものを読み込もうとしても無駄だということである。解釈に於いて仏教思想を参考にするなら禅仏教ではなく親鸞の新仏教の方がよい。

キリスト教神学に輪廻転生を採用した異色の神学者であった野呂芳男氏は、「むしろ親鸞によって始められた浄土真宗などのいわゆる民衆仏教とキリスト教との対比の方がよりみのりのあるものであると考えている」(~野呂著『キリスト教と民衆仏教』)と述べている。これは宗教的実存の面で自分自身のこととして理解できる。すなわち、「私には、神やキリストや隣人と自己への正しい執着を説く方が自己の滅却を説くよりも、人間の現実に適合しているように思えるのである。無常を説き、世のはかなさを説き、自己の滅却が心に平和をもたらすことを説けば説く程、私のような庶民は、それなら現世で人を蹴落してでもできる限り楽しもう、という気分に追いつめられて行く。涅槃や自我の滅却が単に利己主義は止めよ、というような日常道徳として感じ取られている限り、別にどうということはないが、それが形而上学的な無や空として理解されてくると、私などは反発してしまうのである」という吐露(~前掲書)にも共感するところがある。禅仏教ないしは西田哲学の影響の強い宗教間対話的神学はエリート主義的、理想論的傾向がある。まさしく「庶民」の生活現実から離れた思弁であり観念的世界である。だからコーヘレト書に仏教、特に禅仏教的理念を読み込むことはコーヘレト思想の誤解につながる。コーヘレトは神関係において確固たる「私」を有っていた人である。その点では有賀氏が、コーヘレトは「一種の実存主義と呼ぶべきであろう」(~「コーヘレト哲学」)と言うのはわかる。モルトマンが「三位一体の統一性と対応するのは孤独な人間主体ではなく、人間的な人格共同性のみである」(~『三位一体と神の国』)と述べているような、言わば現代的共同関係主義などとは無縁である。コーヘレトの「神」は当然のことながら宗教学的分類にあてはめて理解するには限界はあるが少なくとも「無神論」ではなく「有神論」であり、局所的には「理神論」的面はあるが大体に於いて摂理ないしは経綸が示されているし、とにかく創造信仰にもとづいているので「汎神論」ではない。その意味では国木田独歩の神観を思い出す。複数形のelohimが使われていることで包括的神観ないしは「汎在神論=万有在神論」を読み込むことは可能かもしれないが、その意味もモルトマンが言うところのそれに該当するかどうかは定かではなく、少なくとも「三位一体の神」ではない(「三位一体」は父と子と聖霊との人格的区別がある点は聖書的だが、東方神学の「ペリコレーシス」〔相互内在〕という神秘主義的存在論が非聖書的であり、人間イエスが「絶対者」である「(父なる)神」と同一の本質であるということが断じて認められない。すなわちイエスが「先在のロゴス」が受肉したという神話は非神話化されて然り。その「先在」を文字通り受け取ることは出来ないが、創造主が永遠に於いてイエスという人を仲介者として選び立てたことの象徴的表現とみなすことはできる。この「神の特別な選び」なくしてイエスが「メシア=キリスト」と呼ばれることはあり得なかった。「メシア=キリスト」は「神性者・神格者」を意味せず、「神」から選び立てられた受膏者〔預言者、祭司、王の三職〕を意味する。イエスが「神」と同質〔=「主」、「神の独り子」〕と言えるとすれば、それは人としての本質との同一ではなく、「(父なる)神」が〔その誕生前から〕イエスに充たした「神の霊=聖霊」のそれとの同一であって〔この点で私の解釈が所謂「養子論的キリスト論」と異なるのは、そちらがイエスの受洗時の聖霊授受であるのに対して、こちらはイエスの誕生前からの聖霊授受であるということ。これを使徒信条の神話的表現で「主は聖霊によりて宿り」と言う〕、そこにはイエスと聖霊との「不可分・不可同・不可逆」の区別がある)。このように私自身の「神」観もモルトマン的神観に比して(そもそも神学を職業でやっているような人間の神観と自分のそれとを比べること自体が非現実的,観念的過誤である。私は「神学」の徒ではなく「神関(係の)学」の徒であって、一介の下層労働者としての限定に於いて思弁欲を制限した上での許容範囲内ではあるが、)「~でない」と否定し(共通点はほとんど無い)、それとの違いを示す形で表現するにとどめ、積極的な定義はむしろ思弁になりリアリティーを欠くので控える。すなわち「有神論」だろうが「汎神論」だろうが、あるいは「汎在神論」だろうが、究極的にはどうでもよいことであって、自分にとって「神」がいかなる存在であるかは言葉で表現しなくても自分の内面では神関係に於いて充分に示され感じられていることであって(それをあえて概念化すれば「直観」とか「信知」とかいう)、少なくとも客観的「啓示」ではなく一般化して語る必要は無い。むしろそういった「神論」自体が偶像化につながる。だから神学的思弁を排し、ただ、聖書に示されているところのイエスが「アッバ」と呼び示した「天の父なる神」を実存的に信じるのみ。それが私見ではコーヘレト的「実存主義的信仰」であり、「人格神」か否かといった宗教哲学的議論も「考え過ぎ」になる。ましてや前記の「ペリコレーシス」について、その是非を論じる力量も余裕も無い。とにかく、実体論(または存在論)的意味での「相互内在」は、それが神学的には是とされようとも自分自身の神関係・神信仰に於いては、誰が何と言おうと実存主義的にこれを受け入れない。他人は他人、学者は学者、信仰は所詮、自分自身が一対一の(人格的)神関係に於いて「自分の十字架」として担うべきものだ。この限定性こそが実存主義的信仰の前提であり要所である。

聖書釈義の上では神観について「考え過ぎ」にならない場合もある。モルトマンなどのような組織神学者や宗教哲学者などの理屈としてなら無用だが、旧約聖書学者の関根正雄氏が次のように述べている。

<ユダヤ人のネエルが『預言の精髄』で、パンテイスム(汎神論)に対してパナンテイスム(Panentheisme)といっているが、この万有在神論という考え方は、西田幾多郎の『場所的論理と宗教的世界観』の中心的立場である。ここでは哲学的問題には立ち入らないが、万有在神論というのは自然物そのものが神だというのではなく、自然という、神とはぜんぜん違ったものの中に神性が宿ることといってよいであろう。「出エジプト記」第三章の燃える茨の中に神が現われたというのは、自然物を介しての神の顕現でパナンテイスム的といってよいであろう。こういう自然の中にも神を認めるというのは、ある特別な感覚であるが、こういう感覚を我々がぜんぜんもたなかったら、モーセのような人の信仰の原初的な感覚に近づくことはできず、ただ物語として読み過ごしてしまうか、あるいはせいぜい、これは一種の汎神論ではないかということになるであろう。けれどもそうではなく、物質をも生かす神の霊的リアリティの感覚の問題なのである。(中略)旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、そういう見方があるために、聖書の神は日本人に合わないとか、もっと女性的な要素を入れなければならないとか、いろいろな見解が出てくる。それは結局旧約聖書を厳密に読まないからである。(中略)旧約の神はすべての自然物の中に来り給うし、我々の体の中にも来り給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている。>(『古代イスラエルの知恵』〔講談社学術文庫〕p86~87)

このように、組織神学(ないしは教義学)的関心からの神論ではなく、聖書神学的関心からの神論であれば、実存主義的信仰に於いても無用な思弁とは言えない。ただし、私は上記の関根氏の考え方とは違う。万有(内)在神論(=汎在神論)は、「自然という、神とはぜんぜん違ったものの中に神性が宿ること」というふうに、神(性)が自然に宿る(「自然 > 神」)というのではなく、反対に、被造物である自然の方が創造主である神の中に存在する(「神 > 自然」)という意味で受け取る。その方が使徒17:28でパウロが引用している詩の、「われわれは神のうちに生き、動き、存在する」という表現に合うからだ(私見ではⅠコリ15:28の「神がすべてのものにおいてすべてとなる」という言葉にも万有在神論的イメージを感じる。また、万物の出所が「神」であるというパウロの思想はローマ11:36、Ⅰコリ8:6〔→解釈について当サイト「本源者」参照〕に表わされている。)。実際、万有(内)在神論の定義として『哲学事典』(平凡社)では、「理神論や超越神論のように世界を神の外部に措定せず、また汎神論のように世界それ自身を神の顕現とすることによって神を世界のうちで消滅せしめず、万有は神のうちにあり神によって包括されているという考え方」とある。しかし、「万有(内)在神論」というのは、「超越」の面に偏る一般的有神論とは異なり「内在」の面も重視するということのようだから、「神(性)」も自然・万物に内在するという面も認めねばならないだろう。しかしその内在面では、私は「神(性)」という言葉を使いたくない。「神の霊=聖霊」でよい。現実的には「天→神/地→霊」と二元論的に分けきれるものではないにせよ、そこはあえて区別したい。そうでないとプロセス思想のような、信仰生活に無用の思弁に陥るからだ。イエスが「神」の居場所を「地」ではなく「天」とし、コーヘレトも「神は天におり、あなたは地上にいる」(5:1)と述べているとおり、創造主である父なる神御自身(の本体)はあくまでも「天」にあって(詩篇115:3他参照)、我々が生きている「地」にはおられない。しかし超越しているだけではなく、御自身の「霊」を送り、これを通して被造世界に遍在しておられる。人間が個別的に神との関係を有ち得るのは、この「神の霊」の働きによる。この「霊」は「神そのもの」と不可分だが区別は出来る。ちなみに古代ヘブライ的思考では主体とその動作・行為・働きとを区別しきれないが、それは時代的制約の問題であって、そこに論理的思考に優る何かを認める必要はない(関根氏前掲書p89参照)。

上記で関根氏が「万有在神論」を示す箇所として挙げている出エジプト記3章のはじめは、2節の「ヤハウェの使い」を私は「神の霊」を人格化したものだとみる(三位一体の教義における「聖霊」のように、はじめから人格神であるとは解さない。「霊」は、それを取られると腑抜けのようになるから(詩篇104:29、創世記2:7参照)、生命的「活力(の源)」とみなす。その「活力源」のさらなる「源」すなわち「本源」が「神」)。そしてその「神の霊」を通して4節にあるように、ヤハウェは天にありながら地において自由自在に働けるのだ。自分自身の「神(との)関係」におけるリアリティー、すなわち観念にすぎない「神」ではなく生きる力を与え給う「活ける神」の確かな実在感は、自分の生活における頑張りを通して強められるものである。そこに他力と自力との一致がある。自分なりに頑張る姿勢がイエスの「(自ら)起きて歩め!」〔マタイ9:5他〕という言葉に従うことになり、信仰体験を深めることにつながる。神を試すことは罪だが(賜物であれ)信仰を試すことは許されると確信する。ただしそれは後述の内村や矢内原が言うような(私見では自力的)「実験」とは区別される。たとえその結果、頑張りが続かず挫折するようなことになってもそれは自分の信心の弱さゆえであって「神」の働きのリアリティーを少しも減じるような事柄ではあり得ないからだ。「神」の働きのリアリティーは何はさておき生かされていること、それ自体の経験を通して実感される。「神は死人たちの神などではなく、生ける者たちの神」(マルコ12:27)であり、神の霊に導かれる者はどう生きるかということより、まずは生きること、神によって生かされて生き抜くことを使命とする。私は宗教改革の「職業召命説」は必ずしも聖書的根拠があるとは思わない。福音主義教会というところは昔から医師や教師など知的職業に就いている人が多く、社会的地位の高さと教会奉仕者としての評価とが比例する傾向がある。少なくとも3Kの肉体労働者は少数派である。そういう主流派の伝統的キリスト教会の中では、ジュネーヴ教会信仰問答の第一問に「人生のおもな目的は何ですか」とあるように、また、ウェストミンスター大教理問答の第一問に「人間のおもな、最高の目的は、何であるか」とあるように(小教理問答の第一問も同様)、生きること、それ自体は目的とは認められず、ただ生きているだけでは動物と同じで人間としての意味は無いといった考えが生じやすいだろう。「神の栄光を現す」ということは自分が社会的評価を受けることによってクリスチャンに対する世間のイメージ乃至はその信仰対象である「神」の存在を証するといった意味にとられやすいからだ。しかし、私はそういう考えは信仰的とは思わない。生きること自体、存在し続けること自体が、この世では他力なしには不可能なほどにつらく苦しいのだ。特に多くの下層民にとって人生とは重荷を負うて歩む旅である。キリスト教はその「苦」(特に怨憎会苦)の洞察を仏教から学ぶべきであり、クリスチャンに少なくない隣人愛を上から目線で言うブルジョア信者は、まず自分自身が愛を受けるべき側に身を置いて、その苦労を経験すべきだ。

ところで、私にとって否定媒介的モルトマン神学の「社会的三一論」をヒックの影響により宗教多元主義的解釈から支持する野呂氏ではあるが(喜田川信氏によればそこには論理の飛躍があるそうだがそれはともかく)、「究極的なものと人間とのふれ合いの場所は、現代人にとって個人一人びとりの魂の奥底であって集団ではない」と述べ、「集団というものは、それに属することが個人の信仰生活にとって益となるかぎり便宜的にのみ意味があるのであって、したがって、各人がよしとする集団に入ればよいし、あるいは一人でもよいのである」と言うが(~前掲書)、これは野呂の言葉というより「プロセス神学」のホワイトヘッドの言葉(宗教の本質としての「孤独性=ひとりでいること(solitariness)」)であるが、その点だけは共感する。

とにかく実存主義的信仰に於いては「神」の実体性なり主体性、一対一の人格関係は自明の事である。「イマゴ・デイ」で創造された人間は創造主の実体性を映す存在であり、人は神関係に於いてこそ人としての格を知り実体性を得られるのだ。その感覚がコーヘレトの場合も日常の労働や飲食などを通しての神関係として表わされている。「益」(yitronは「余り」、「もうけ」とのこと。「益なし」は意味なしということか。西村氏の注解では、「益」は元来、商業用語だが<コーヘレトはこの語に「形而上学的意味」を与えている>と言われています(p64)。コーヘレトの時代は「歴史上かつてないほど商業が発達し、一攫千金の機会に満ちていた一方で、計算できない多くの危険に溢れていた時代であった」とのこと(「IP-J-63p70)。表面的に読めば、コーヘレトが厭世家とかニヒリストといわれるのも無理はないだろう。しかし、私はそうではないと思う。彼はあえて、言わば方便的に極端な言い方をしているのだと思う。つまり、善因善果悪因悪果の応報法則を前提としてきた伝統的「知恵」を批判する意図を込めて、「何の益があろう」と言っているのだと思われる。本当にそのように思って絶望状態に落ち込んでいるわけではないはずだ。それなら3:1213、5:1719、7:1314など、後のポジティブな文言と矛盾してくるからだ。とは言え、全体的には「空しさ」の気分が目立つし、「本書には明らかにコーヘレトを自称する著者以外の筆になる編集の形跡が認められる」(~勝村弘也氏の「解説」p208)ので、必ずしも矛盾するとは言えない。少なくとも所謂、(純)福音派的「敬虔(主義的)」なタイプの信徒などでなかったことは確かだろう。それが却って良いのだ。詩篇の一部の歌のように神への信頼が情緒的に深すぎるよりも、私はつかず離れず、不即不離の距離感がある神関係の方が精神的健康において良いと思う。コーヘレトは、神を信じるというか神を畏れることによって、「空しい」とか「無意味」ですまされるような人生に終わることはないと語っていることもまた事実である。私はそちらの方に注目したい。神関係・信仰に支障を来す無用なる知欲,思弁欲の排除、すなわち諦観のための相対化の根拠としてコーヘレトが指摘する「空(ヘベル)」は積極的な意味も持ち得ると思う。ただしそれは「(造り主としての)神を畏れる」という心あってのことであり、それなしには「空(ヘベル)」はまさに否定的意味でしかない。虚無にほかならないのだ。ちなみに有賀鐡太郎氏は次のように述べている(前掲書より)。

<「空しとも空しい、とコーヘレトは言う、空しとも空しい、一切は空しい。」と著者はまず前篇の趣旨を打ち出している。ここに「空しい」と訳されたhebelなる語は元来は湯気とか風とか息とかを意味する語であって、そこから転じて、捕え難いもの、実在性のないもの、無意味なものを指す。マタイオテース, vanity,Nichtigkeit などと訳されている所以である。コーヘレトはこの語を四十回も繰り返しているが、そこ以外においては旧約聖書全体において僅かに三十三回その語が出るばかりである。それによって見ても、その思想が著者にとってどれだけ基本的なものであるかが分かる。それは創世記第一章において神がその創造を「善し」(tobh)と見たもうたとあることに鮮かな対比を成している。とりわけ創世記一・三一の「そして神は、その造りたもうた一切を見たもうたが、見よ、それは甚だ善かった」との対比は著しい。その「善い」というのは、創造における神の目的に一切が叶っているとの意味であって、またその事が人間にも認識され得るものであることを前提としている。コーヘレトは、そのような合目的性を世界において認めることはできない。一切には意味もなく目的もない。従って世界における人間の一生にも何の目的もないし、また何のプラスもない
「何の益が人間にとって、日の下に働く彼の労苦にあるか。」
「日の下に」(tahathhasshemeshという表現を著者は好んで用いているが、これは人間存在の限界を印象深く表現する。それは八・一四、一六及び一一・二に出る「地の上に」(al-haares)とほぼ同義ではあるが、それが太陽の光を示唆しているところに微差が認められなければならない。人間存在は、ともかくも輝く太陽の下に営まれる一生ではある。従って「日の下に」は必ずしも悲観的な表現とだけは見られない。だが右に引用した句においては確かに「限界づけられた地の上に」の意が勝っている。人間は地上に生まれ、働き、そして死んでゆく。そしてその生涯の決算において剰余となるものは何一つない。「益」と訳した yithron は、そのような「残額」を意味する。だから人生にはプラスはないのであるが、マイナスも無いということにもなろう。しかし、ここではプラスがないということ、即ち人の生涯の無意味なことが前面に歌われている。>

「日の下に=地の上に」という世界内存在としての被投性、限定性が重要な認識であり、それがあるから思弁を弄して考え過ぎるという愚を避けることも出来る。西村氏の注解でも、「何の益があるか」という<この問いと帰結の普遍性は、「すべての」という語に表されているが、彼、人間の「労苦に」と、「日の下で」という二つの仕方で強調され、限定されている。それがどのようなものであれ、人間の労苦(あるいは「労苦から」、514参照)に関してであり、また、日の下の領域(天とシェオール以外)に含まれる領域からはみ出ないことに関してである。>と書かれている(p63)。つまり<「益がない」と言われる場合、「日の下で」(2111011の益はコンテクストが異なる)であって、「益」を求めることを拒絶しているのではないことは注意すべきである。ただしあの世での益を考えているのではない。>ということで(p65)、コーヘレトが求めているのは、私見では神関係における信仰の「益」である。「神を畏れる」ということは先ずは人間の分際をわきまえるということであり、欲を制御すべく理性の働きを研ぎ澄ませることだ。それなしには知的欲求(思索)であれ情意的欲求(言動)であれ歯止めが効かずキリがなくなり自分で自分の首を絞めることとなる。人生もアクセルとブレーキをバランスよく使ってこそ安全走行できる。孔子の「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉も、あるいは老子の「止足の戒」も、先ず己自身の限界・限定性を悟ることを示唆していると思う。人生は神の支配下にあるのだから自力で将来を切り開く・・・みたいな発想にとらわれる必要はない。その所にあって神関係が与えられているのだから。その自分に与えられたタラントの程を自覚せずに他人との優劣比較の競争意識に支配され(TVなどマスメディアによる洗脳が最大の原因!)、分を超えた思索や言動にエネルギーを費やすことは無駄となり却って煩悩が増すことにもなる(1:18参照)。現実的で効率の良い営みは分を弁えてその範囲内で最大限に自助努力することである。たとえば一介の肉体労働者が観念的に宗教指導者たらんとするは誤りなり。そのような「使命(感)」なり「召命(感)」は労苦を軽減しようとする不純な動機を含むかぎり幻覚なり。下層労働者は労苦の日々に耐えるべき社会的位置に「限定」されていることを悟り、無為に読書に時間とカネを費やすべきではなく、ただ単純素朴かつ実存的に生得的対神関係の感覚を持続しつつ聖書を読み祈祷して日々の務めに出てゆけばよいのだ。肉体労働は疲れを生じて必要な思考力を低下させるというマイナス面はあるが同時に余計な知欲を抑制する効果もある(コーヘレトの場合の「労働」は「肉体」ではなく「知的」労働をいわれる)。前近代的時代に丁稚が仕事の合間などに教科書などを読んでいると店の先輩や主人が、そんな知識を身につけると却ってアカになったりするからロクなことはないと叱責し、おしんの場合の場合のように使用人を初等教育も受けさせたがらない職場があったのは現代民主主義社会から見ればけしからん時代の話だが、そこに時代を越えて一理を見出し得るとするなら(無論、初等~中等教育は不可欠だが)誰でもより高い教育を受けて知欲をかり立てられること、知識を重ねてゆくことが必ずしも個人にとっても社会全体にとっても良いとは必ずしも言えないということだ。意味は少し違うが「知恵が多ければ、憂いが多く、知識を重ねては、悩みを重ねる」(1:18)。それに「知恵は武力にまさるが、貧者の知恵は侮蔑され、その言葉は聴かれない」(9:16)とあるように肩書きの無い無学な者がいくら知識を得て何ごとかを発表しても相手にされないだけで、それこそ空しい。従って貧者は無駄な企てに時間と労力を浪費せず第一に自活に努めるべし!余計な知欲などかき立てられず現状の立場を自己限定として神信仰にもとづき黙々と生きる方が美しく、また本人にとっても幸せという場合もある。特に宗教はそういうことの方が多いように思う。神学をかじったら却って信仰が衰えた・・・などという声があるのも、知識を身につけることと精神性が深まることとは直接の関係はないということを示している。現代の日本ではメディアを通して、若者が将来の夢を掲げ己の中に無限の可能性を見い出すことを美化され奨励されるが、競争原理ゆえにその上昇欲を駆りたてられた者の中には自分の現実に絶望し自殺するような者も数多く生まれることになる。勝者と敗者とに差別される社会の中に虚無と退廃のガスが充満してゆく。キリスト教神学者が描く「神」の主流は「共助せしめる神」だが、私はそれよりも「自助せしめる神」を聖書から示される。安易な「共助」主義、半端な社会主義は却って民衆の中に不公平感を強め連帯感を弱めてしまうことになるからだ。そういう心理をインテリの政治家などはよく知らないようだ。今の時代、低所得者層は生活保護受給者に堕ち込まないことを目標とし、保護受給者は路上生活者に堕ち込まないことを目標とし、できるだけ保護状態から脱却できるように実際的・戦略的に自助努力を続けなければならない。そして路上生活という最低の状態にまで堕ちた者もそこから這い上がる努力は棄ててはならない。これを棄てることは人生を投げ出すことを意味する。人としての最低限のプライドは最低である現状に甘んじることなく、常に前向きに動いていること、現在進行形(-ing)である。結果的には脱却にならなくても、その前進姿勢自体に人としての尊厳が保たれている。そして神信仰はそこまで活きるものである。しかし全てを投げ出し、完全に自助努力を棄てて酒びたりになった者は、もはや、自分を投げ出したこと、人生を棄てたという、そのことに於いてすでに神関係に置かれてはいないことの証となる。逆に言えば、神関係にある限り人は自分を投げ出すことは出来ない。たとえ一時的には停滞したとしても必ず立ち上って自助努力を続けるし、そのための活力を「神の霊」として与えられるが故の神信仰なのである。それなしに信仰に意義なし!である。それくらいでなければ実践的とは言えない。繰り返すが、神を試すことは罪であるが(賜物としての)信仰を試すことは罪とは思わない。観念性を越える為には・・・。「労働は我等の信仰を確かむるものであります、亦(また)之を固(かた)める者であります、労働は信仰の実験であります」(~『内村鑑三全集』第10巻、p2223参照)

否!そもそも自分の「神(関係)」が「観念か、実在か?」みたいな二元的思考が自分を縛るのだ。観念なら観念でええやん、要は精神の安定に役立てばええ、要は「神(観念)」を有つこと、「My God」を有つことが「空しい」人生の日々を生きる上で、ささやかでも「幸い」を感じられる「益」(yitron)につながればええ、観念論にも有用なものと無用なものとがある。

<プラトンの言うイデアは、近・現代の人々が言う意味における「観念」ではありません。近代・現代において「観念」といわれる場合には、現実に照応しない空想的なものなのですが、プラトンにおいては、そのようには考えられていません。事柄はむしろ逆なのであって、いわゆる現実的な個物は、すべて変化し滅びるもの、無常なものである。まさに万物は流転するのであり、そのなかには、真のリアリティーは宿っていないのです。プラトンの場合には、むしろ逆に、これら流転する万物を生み出し動かしている永遠不変のリアリティーをこそ、イデアと呼んでいるのでしょう。こういうふうに、何が本当に現実でリアルなものであるのか、という議論は、あまり簡単ではありません。(中略)とにかく、どういう定義をしているかが重要な問題になります。ですから、現実といっても、その定義いかんによって答えも違ってくるわけです。ですから、現実といっても、もし、カントが「物自体は認識できない」と言った意味において言うのであれば、現実は認識できないということになります。また、岸田秀さんのいう意味においては、一切は人間の観念によって把握されているものですので、すべて幻想といえば幻想だということになります。もちろん幻想といっても、何がしか現実に照応しているのであり、どれが現実により正しく照応しているのか、どれほど正しく現実を反映しているのか、と問うこともできます。しかし、よしんばある観念が、何らかの意味において現実をよりよく反映しているとしても、それが現実そのものではなく、反映しているにすぎないものであるという事実は変りません。いずれにせよわれわれが、本質的に一義的・限定的な機能を持つにすぎない言語を介して事物を認識しているかぎり、われわれの認識というものは、相対的な一つのパラダイムにすぎません。どれほどすぐれたパラダイムであれ、それ自身が現実であるということはありません。(中略)宗教の大きな問題点の一つは――キリスト教の場合に最も顕著に見られるのですが――宗教的な表象とか教義とか、所詮は地図にすぎないものを現実の土地そのものと混同してしまうことです。そうすると、教義、つまり地図が批判されると、それと同定されている現実そのものが崩壊してしまうというふうに思いこんでしまうのです。ですから、教義が批判され崩壊するように見えると、現実そのものが崩壊し、真理そのものが崩れてしまうと思ってしまうのです。(中略)そこから、ニヒリズムが生じてくるのでしょう。別な言い方をすれば、地図イコール土地と思いこんでいること――哲学的にいえば、それは観念論ということでしょうが――が崩壊すると、そうした同定と結びつけられていた一切の意味や価値の観念が崩壊してしまうということが、ニヒリズムなのです。それゆえ、以上のような意味における観念論が存在しないのであれば、ニヒリズムなどは生まれてこないのです。>(高尾利数著『宗教幻論』〔社会日評論社〕p2528

「教義」の発生には必然性がある。まず、キリスト教で言うところの「聖書」といった正典・教典が信仰の第一基準としてあり、それが「神の啓示」とみなされるからだ。その「啓示」こそが人間の「観念」が「幻想」にとどまらない「現実」を反映させる根拠となる。「啓示」自体も「観念」と言えば「観念」だが、「啓示=現実」を公理としなければ一神教のような「(啓示)宗教」は成立し得ない。だから教義は「崩壊」はしない。相対化されるだけだ。それでも高尾氏のいう「地図」と「土地」との区別という自覚は重要だろう。なぜなら活ける「神」を人間の観念にすぎない「愛」とか「正義」に一元化することが「神義論=弁神論」という無用な思弁を生み出すからだ。コーヘレトに学びつつもコーヘレトを超えて、有神論的相対主義で生きることが主旨です。内村や矢内原などエリートのおっちゃんたちのように信仰実験などせんかてええ!自分の「神」との関係は他人からは何の批判も受けることなく自由に開き直って活きたらええ!・・・ということである!とにかく先ずは、出来ることより出来ないことを弁えることが肝要だ。普通はその逆に出来ないことではなく出来ることを考えよという。しかし神信仰ではまず謙虚になることが求められる。コーヘレトのように「地の上に」足を着けた考え方で実際的に生きるには、歴史的現実を直視しなければならない。それは空しいと感じられるが、虚無ではない。この現実を支配しているのは偶然の運命などではなく必然の神意だからである。

聖書箇所に戻るが、西村氏の注解では、コーヘレトが<より一般的であった「天の下」ではなくて、「日の下」を用いたことは、近東に一般的なシンボルとしての太陽を、この世的なものにとどめ、神格化せず、また反対に世界の意味の説明原理として元素化することもなしに、ひたすら、この世を凝視しようとしたからであろう。>と言われている(p70)。

ところで有賀氏は、コーヘレトの神は「自己啓示の神ではなく、全く自らを隠す神、近き神ではなく遥かなる神である」と言うが(前掲書)、だったらどうやって、その「知られざる神、交通不可能な神」を認識し、関係を有つことが出来たのか?という疑問が生じる。そしてその答えとしては「要請」としか言われていない。「かかる神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない」と(前掲書)。それはカント的「公準」としての「要請」ではなかろうが、とにかく人間の必要と切り離された客観的「啓示」を前提とする神学的思惟にはリアリティーが無いのは確かだ。バルトのように「聖書に証しされたイエス・キリスト」を客観的な神啓示とみなすことには大いなる独断と無理がある。「日の下」に生かされているという被造物としての限界を弁えてこそ積極的意味での「諦める=明らかに究める」ということも出来る(→五木寛之著『人間の覚悟』〔新潮新書〕、同『人間の運命』〔東京書籍〕参照)。コーヘレト書の最大の魅力は、一方で空しい現実を直視して率直に表現していながら、もう一方では創造主信仰を堅持し( 3:117:142912:1他)、単に創造だけではなく聖定者・摂理者としても信仰していることだ(3:13175:1719他)。人間は神の聖定(創造と摂理の業に於いて)についての信仰にもとづいてこそ、被造物としての自覚と自己限定によって考え過ぎ・思い煩いを回避して最も大切な神関係(=神の国・神の支配)に集中できるのであって(マタイ6:3134、ルカ12:2931参照)、それが人生最高の知恵だと思う。だから自分は改革派教理で言われる意味での固定的・閉鎖的「聖定」の概念は、コーヘレト的「神」信仰に合わないものとして斥けるが、コーヘレト書の理解の上でも「聖定」という言葉自体は活用するのだ(3:17の読み替えの「サーム」解釈など)。そしてその自己限定の知恵によって無用な疑問にとらわれず、日々の生活を飲食にせよ労働にせよ、そこに逆説的に益を見出し、「知足」を観念で終わらせず現実に経験できるのです。真の幸いとはこうした諦観によって得られるものであり、自己の限界を無視した考え方では空しくなるばかりだ。

 


 

 

 

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)