遠藤周作氏の神観

以下、遠藤周作著『神と私 人生の真実を求めて』(朝日文庫)より引用(ルビや傍点などは省略。赤字は当サイト管理人の恣意による)。

 

<眼にみえぬ働き――それを神といってもいい。なぜなら神とは普通に言われているように存在というよりはむしろその働きを我々に感じさせるものだからだ。それに気づいたのは自分の人生をいささか俯瞰できる年齢になってからである。神は直接的ではなく間接的に、友人や邂逅や離別や、いや犬のぬれた眼や死んでいく小鳥の眼を通して働いていたことがやっと私にもわかったのだ。

                  『落第坊主の履歴書』(エッセイ)

 

神といえば私が学生時代、よく学生たちは議論したものである。「神がいるなら、その存在を哲学的に証明してみろ」と・・・・。そしてある者は青くさくパスカルの賭けの論理を口にしたり、カントの純粋理性批判の秩序を引用した。哲学科の男は習ったばかりの中世哲学トミズムの運動の原因論などを持ち出した。

これは遠い遠い昔も話である。あの頃のことを思い出して老いた私は思わず苦笑する。何という無駄な幼稚な議論をやっていたのだろう、と。もっと早く気づけばよかったのだ。神とは存在ではなくて、働きであるということに。

そしてその働きを私は自分の人生のなかで色々な形で感ずることができた。たとえば本格小説を書いている時、稀れではあるが自分が書いているのではなく、誰かに手を持って書かせられていると思う箇所が私にもある。(中略)

あの時、私の腕をもって助けてくれたものは何か。グリーンのいう彼の「人生をよき方向に向かわしてくれた力」とは何か。

近頃、深層心理学者たちはそれを無意識の働きと呼ぶようになった。しかし私などは無意識だけでは割りきれぬ何かを感じる。眼にみえぬそれらの働きを感じる時、神は我々のなかで、我々の人生のなかで、ひそかに働くことで自分を示していると思う。

                      『万華鏡』(エッセイ)

 

私はひたぶるに神を求めることはなかったが、生涯のんびり、ゆっくり楽しみながら神を求めたと言えるかもしれぬ。

のんびり、楽しく、とは無理をしなかったという意味である。無理をしなかったというのは第一小説を書いたり読んだりしながら、つまり人間の心のなかをまさぐりながら、六十歳の歳月をかけて神を求めるものが人間の無意識のなかにひそんでいるのを実感したからである。また色々なステキな友人を通して神のあることを感じたからである。

                    『心の夜想曲』(エッセイ)

 

イエスの話はサドカイ派やパリサイ派の教師や獣の皮をまとった預言者のそれのようではなかった。教師や預言者たちはいつも人間の弱さを責め、神の怒り、神の罰の怖ろしいことを烈しく威嚇するように説いたが、イエスはそんなことは一度も口にしなかった。彼は神もさびしいのだと言った。神は女が男の愛を求めるように人間をほしがっていると語った。神は預言者たちの言うようにきびしい山や荒野にかくれているのではなく、辛い者のながす泪や、棄てられた女の夜のくるしみのなかにかくれているのだと教えた。

                     『死海のほとり』(小説)

 

(前略)戦国の時代に生れた行長は他の英雄たちと同じように野心がありすぎた。野心は彼にとって神より大事だった。だが彼が神を問題にしない時でも、神は彼を問題にしたのである。

「神は我々の人生のすべてを、我々の人生の善きことも悪も、悦びも挫折をも利用して、最後には救いの道に至らせたもう」

この聞きなれた言葉を行長の生涯のなかで我々も見つけることができる。神は野望という行長の首枷を使って、最後には「彼を捕えたもうた」からである。一度、神とまじわった者は、神から逃げることはできぬ。行長もまた、そうだったのである。 

                   『遠藤周作文学全集10 評伝1』

 

マルコによる福音書の一番初めを読むと、らくだの毛の衣を着て、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食っていた洗礼者ヨハネが荒野にあらわれて、みんなに言うには、罪の許しを得させるために、悔い改めよ、と言うわけです。神は怒る、神は罰する、神は裁くのです。そこへその弟子としてイエスが、ナザレの大工の家から飛び出してきて洗礼をヨハネから受けるのですが、彼はそこで、神とは、怒りの神でもない、裁きの神でもない、愛の神だ、ということを見つけて、洗者ヨハネ教団から離脱して、自分の教団を少しずつこしらえ始めたのです。

イエスが説いたのは、裁きとか罰するとかいう神のイメージではなくて、愛してくれる神のほうです。イエスは人間に信頼感を持っていました。聖書の中で裁きのことをイエスが言っているのは、それはイエスが死んだ後、原始キリスト教団の意識を反映した部分だと思います。何度も言うように、イエスが説いたのは、そういう神ではなく愛する神、許す神であったのです。

神は、何を過去にしていても、最後に、本当におれは悪かったと後悔する者は救われるのだ、と言ったのです。

                 『私にとって神とは』(エッセイ)

 

私はカトリックでしたから、しかも日本人のカトリックでしたから、いつも神のある、なしの問題に苦しんでまいりました。(中略)

当然、私は日本人である自分たちのことを考えました。日本人には神が伝統的になかったため、正確にいえば神を憎む無神論ではなく、神があろうがなかろうが、どうでもよい無神論に支配されていたことに気づきました。(後略)

                  『春は馬車に乗って』(エッセイ)

 

(前略)私はあのパスカルの神の存在の賭けさえも自己流に屈折して読んだのであろうが、ともかく「神があるか、否か」という問題をこれほど生涯の問題として賭けようとした一人の西洋人が「神があろうが、なかろうが、どうでもいい」日本人の私の前に突然、たちはだかったのである。私は『パンセ』を読むたびに、日本人の自分、つまり神などかつて問題にしないでもすむ伝統や風土に生きている自分を一つ一つ考えさせられたのだ。(後略)

                  『春は馬車に乗って』(エッセイ)

(前略)神を憎むものが深い信仰者になるということは、よくあることです。しかし、神に無関心な者は、いつまでも神に無関心です。たいていの日本の無神論者は、神を憎んで無神論者になるのではありません。神に無関心な無神論者です。どちらかを選べというならば、私は、神を憎む無神論者になるでしょう。というのは、神を憎む無神論者は、それによって生きる充実感を持つことができるからです。

                   『私にとって神とは』(エッセイ)

 

人はキリストを通して愛の神を知るのですが、自分の人生の途上においても神を背中に感じることがあるでしょう。神を感じさせるものが聖霊で、更にキリストの教えがあって、その奥に神があって、そしてこれで神というイメージができ上がるのです。だから、このどれ一つが欠けても、神について不完全な感じ方になってしまいます。この三つがあって、神というもののイメージが感覚的に感じられるのだと思います。

                   『私にとって神とは』(エッセイ)

 

 

以下、遠藤周作著『私にとって神とは』(光文社)より引用する(ルビや傍点などは省略。赤字は当サイト管理人の恣意による)。

 

<――あなたにとって、神は働きだと言っておられますが、その働きを具体的にどう感じるんですか。

私が神の存在を感じるのは、今日まで背中を何かが押してくれてきたという感じがまずするからです。自分の過去をずうっと振り返ってみると、私を愛してくれたり、支えてくれたりしたいろんな人がいますが、その人たちがアトランダムにあったのではなくて、目に見えないある一つの糸に結ばれ、一つの働きの上で私を支えてくれたのだという気持があるからです。生まれてから現在につながる糸があるとすれば、その糸にずうっとある力が働いていたのだなという感じを持つのです。そうすると、私の個性とかいったものよりも私をつくってくれたそれらのもののほうが大事になり、この大きな場で私は生きてきたという気がするのです。それを私は神の場とよびます。たとえばもしあなたが、私がいままで話してきたことを聞いて、キリスト教に興味を持ち、やがて洗礼を受けたとすると、神は直接目に見えるわけではないけれども、私という者を通してあなたに働きかけたことになる。神はいつも、だれか人を通して何かを通して働くわけです。私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。その時神の働きを感じます。このことを私は『沈黙』の最後に主人公の口を通して書きました

高橋たか子さんという小説家がいますが、(中略)そうした過程を見ると、彼女にとってむだなものは一つもなかったんです。偶然と思ったものは、決して偶然ではなくて、ある一つの働き、つまり神の働きがそこにあったということを彼女自身も書いています。それを読んで、あっ、私と同じだな、と思いました。だけど、日本の読者には、後ろから押されているということ、神の働きということはわかりにくいかもしれません。それにもう一つ、悪の中にも罪の中にも神の働きがあるということを言っておかねばなりません。どんなものにも神の働きがあるということです。病気でも、物欲でも、女を抱くことにでも神の働きがあるということを、小説を書いているうちに私はだんだん感じるようになりました。神は存在じゃなく、働きなんです

 

私から見たイエス

 

――あなたの書くイエスのイメージは特色がありますね。それを話してください。

 

あなたの小説に出てくるイエスは、大変やさしくて、日本人にも非常に親しみやすい、と言う人がいます。それを日本的すぎるといって批判する人もいますが、ともかく、それが私から見たイエスなのです。イエスというのは、それぞれの人の心を映す鏡だと言われているのは、私には私のイエス像があり、ひとにはひとのイエス像があるということです。日本人におけるイエスのイメージというのをいつか連載で書こうかと思っているくらいです。あるキリスト者はイエスに革命者のイメージを抱いています。精神的にユダヤ教における解放者だったと同時に、社会革命も起こそうとした人だったというイメージになっています。別な人にとっては、イエスはわれわれの心の底にあって、愛の働きをなすものだというイメージを持っています。人それぞれが求めていることによって、イエスのイメージが生まれます。そしてそのイメージの総体が本当のイエスなのだと思います。私が書いたようにイエスは確かにやさしいのですが、ほかの人から見れば、それだけじゃないぞという批判もあるでしょう。聖書を読むと、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っていた商人や両替屋をイエスは縄で作った鞭で追っ払ったり、両替屋の金を撒きちらしたり、彼らの台をひっくり返したりしているではないか、そういうきつい面、強い面があるではないかという批判が、確かにあります。しかしねえ・・・・私にとってはこのやさしいイエスにやっぱり一番魅力があるのです。私はそのイエスが好きなんです。だから、ずうっとそう書いているわけで、神殿で怒っているイエスなどは、私には余りぴったりこないのです。だから私のイエスが絶対的な、イエスのすべてだというわけにはいきません。ほかの説もあります。キリスト教徒は、それぞれのイエス像を持っているということになりますが、それを総合したのが本当のイエスだということになるでしょう。

 

――神の働きについて、もう少し話してください。

 

だれだって、神の存在について、神様は目に見えないではないか、目に見えない、そんな非合理的なものをどうして信じるのかという疑問を抱くでしょう。たとえばここにガラスの瓶があるのを見るように、どうして神の存在を信じられるかと思うでしょう。しかし、私の場合はさきにも言ったように神の存在は対象として見るのではなくて、その働きによってそれを感じるんです。

若いころ、神様の存在を疑ったときは、いろんな本を読みました。ここに何かが存在すれば、その原因があって、さらにその原因があって、またその原因があって・・・・、その第一原因が神だという、神の存在の証明法――中世のトマスの哲学書などを一所懸命読んだりしました。いまは、そういうことはあまり考えません。つまり神が存在するという前に、神でも仏でも、自分の心の中にそういうものが働いているかどうかということが問題です。仏教では、仏の働きは心の底にあると言います。働きがあるというのは、本当にそれがあることだから、神とかキリストとかいうのは、働きだとまず思ったらいいのではないでしょうか。神とは自分の中にある働きだ、と私は考えているのです。それは、自分の心の中でそういう気持になるのか、あるいは自分の意思を超えてそうなるのか、非常にあいまいなものが心の中にあるでしょう。その働きをキリストと言ったり、仏と言ったりするんじゃないだろうかと、私は思っているわけです。くりかえして言うと、神の存在ではなくて、神の働きのほうが大切だということなのです。

では、神が私に対してどう働いてくれたかといったら、それは私の場合、母親というものを通して、あるいはそのほか私の人生において非常に関係の深い人々を通してという形で働いてくれました。ある人にはおやじを通して、別の人には友達を通して、また更にある人には捨てた女や寝た女を通して、神の働きがあったはずだと思います。

その働いてくれる人は、必ずしもいい人ばかりとは限りません。自分を傷つけた人とか自分が傷つけた人も無数にいるでしょう。「ああ、あの人に対して悪いことをしたなあ」と、後になって思い出す人もいます。その時は忘れていたけれど、五十歳を過ぎて思い出したりします。そういう大きな働きの集積が心の底にあるはずです。そして、その人たちのことが、いつかやがて心の底で動きはじめる時がきます。仏教でいう時節到来の時です。それまでその人たちのことはどこに入っているかというと、仏教では阿頼耶識(心の一番奥底の領域)と言っているところです。キリスト教では魂と言うところです。深層心理学者はこれを無意識と言っています。(中略)

――なるほど神は働きだとおっしゃるんですね。

いまはそう簡単に言えますがね、それがわかるまでには『沈黙』という小説を書くまでかなり長い年月を要しました。だから『沈黙』の最後に、「おまえの人生を通して私が語っているので、沈黙しているのではない」と書いたのは、いま言ったXの中で私が神の働きの証明をしているのだということを言いたかったからです。あの一行は私にとってとても大事だったのですが・・・・。だれにも仏性があると仏教では言いますが、かわいそうな人に同情するとか、助けてやりたいという気持に衝動的になるとかいうことも仏性でしょうけれど、そういうものではなくて、いま言ったXの中に、自分自身もよくわからないが、ある行為をしてしまうもの、ある行為をさせないもの、があると思いますが、それが仏性ではないでしょうか。最後の死ぬ一瞬に「ああっ」と思ったりするようになるかもしれない。その仏性が働いたときに、井上神父は、その人は救われると言うのです。だから、井上神父はヒトラーでも心から悔いたならば救われると言いました。

神様というのを二とおりに考えていただきたいのです。常に目の前に、灰皿がそこにあるように、あそこに神がいる、と神の存在を見つけるものではないということがだんだん私にはわかってきました。後ろのほうから、いろんな人を通して、目に見えない力で私の人生を押していって、今日この私があるのだということでわかってきたのです。後ろから背中を押しているのが神なのです。もう一つは、自分の人生を単独な自分のみの人生と考えないで、父親、母親をはじめいろいろな人を合わせた総合体としての場で自分が成立しているのだということを考えたのです。遠藤周作個人より、背後にいろんな人がいて、たとえば『イエスの生涯』が書けたのもそのおかげだと、『沈黙』を書いて以後だんだん思うようになってきました。その中には、さっき言った母もいれば、私に影響を与えたいろんな人もいる。現実に生きている人もいるし、読んだ本の著者などもいます。そのように後ろから押しているものと私を存立させる場というものの二つがあって、それを考えかみしめていると、やっぱり神が働いているなという感じが私にはするのです。

自分の魂の形成の上には神など何の関係もないと言い切れる人は、私の言う「場」なんていうのは否定するだろうし、また後ろから押されているということも、後ろから神に押されたのではなく、自分の意思でやってきたのだと思うかもしれませんが、私の場合は、意思プラスもう一つ、Xというのがあったのだと思っています。人生を歩むについてはたくさんの選択が可能であったのに、結局ここに来たわけで、これを私は選んでいるところをみると、意思のほかに、ほかのものを選ばせない無意識のものがあったのではないでしょうか。本能的にこっちのほうがいいなと思って選んでいるのであっても、本能的に選んだというのは何か理由があるわけで、理由をつくってくれたのはその場だと思うから、どうしても場とのつながりということを考えるようになりました。それを働きと言うのですが、私は働きを認めざるを得ないのです。それでは、仏様でもいいじゃないか、なぜキリスト教かという問題があると思います。日本人がキリストと名づけるのがいやなら「タマネギ」という名前にしても「X」という記号にしてもいいと思います。しかしXというものが、私の場合はキリストという形をとってあらわれました。ほかの人には仏という形をとってあらわれるのかもしれません。逆に考えてみると、私の母が母であった最も大きな理由は、彼女の中のキリストというのが私とつながっていた点です。ほかの忘れがたい人も、その人の中にあるキリストに対する信仰で私とつながっていたからです。その信仰で、私にいろいろ親切にしてくれたり、いいことをしてくれたりしたのです。そうしてみると、私の場合は、キリストと結びついていて、仏教とはたまたま結びつかなかったのかもしれません。(中略)仏教的に言えばこれは前世からの因縁かもしれないが、因縁の深いキリストの中で今日まで生きているから、私がキリスト教徒になるのは自然なんです。それが、私がいま信仰と呼んでいるものです。(中略)私みたいに、ちゃんと神を信じる場が設定されていてその中で自然にキリスト教徒になっていくというのも、神の働きだと思います。(中略)

――あなたでも信仰を棄てようと考えたことがあるのですね。

前にも言ったように、信仰を棄てようと思ったことが幾度もあります。青年時代には何回もイエスに出て行けと言ったのですが、イエスは出て行きませんでした。いまは出て行けという気持はありません。(中略)

――じゃあ神を疑うことはあったんですね。そのことをもう少し詳しく話してくれませんか。

さっき、信仰というのは九十パーセントの疑いと十パーセントの希望である、と言いましたが、私はまだそういう信仰しか持っていません。現在だって動揺しているからです。(中略)

近代聖書学の勉強をやりだして、聖書はそれぞれの福音書の作家が自分の属するグループの信仰を土台にして、旧約聖書の話や、イエスの死後の民間伝承を使って書いたものだと知り、いままで信じていたことが崩れそうになったことがあります。その時もやはり、かなりのショックを受けました。聖書に書かれているイエスの行動のうち確実なものはどれぐらいあるか、われわれにはわからない、と書かれているのを読めば、信者ならショックを受けるのは当然でしょう。それを乗り越えるのに三年間ぐらいかかりました。しかし、『イエスの生涯』『死海のほとり』『キリストの誕生』を書き終えた時、やっと乗り越えられたと思いました。そのあたりも私の信仰の一つのピンチだったことは確かです。(中略)

九十パーセント疑い、十パーセント信じるというその十パーセントは九十パーセントより強いのかもしれません。その十パーセントとは無意識のところで信じていることだと思います。意識のところでは、たくさん疑う面があるんだけれども、さっき言った仏教で言う阿頼耶識のところで信じさせているものがあるのではないでしょうか。

 

無意識の信仰こそ本物ではないか

 

――あなたはさっきから意識では神を疑っても心の底では信じていると言いますが、その心の底って何ですか。

 

よく深層心理学者たちは、無意識の中に隠れているものが夢や神話や童話に出てくると言うでしょう。そして、その夢を見たことが、あるいは夢で見た欲望が、おまえの本当の姿なのだと言うでしょう。私はそういう考え方に、ある共感を覚えるのですが、それは、たびたび言ったように、私が無意識やその奥にあるものを自分の信仰心の根幹としているからでしょう。頭の中で宗教がわかっても、観念で宗教を理解しても、また、いかに聖書学の本を読んでも、実際にそういう努力は私もたびたび続けてきたのですが、しかし、その中で一番働いているのは、そういう知識とか観念ではない。私に無意識の底にあるようなものだと思います。私の無意識はどうしてできたかというと、少年時代、私はただ惰性で洗礼を受けた時から始まったわけです。それは観念ではなく、母親の教会に行く姿や祈っている姿を見るうちに、でき上がったものだと思います。私の無意識の中にある信仰は、私の周りにいた大人たちのそうした祈る姿や、クリスマスに遊んだことや、そして、病気をした時、苦しい時の神頼みで一所懸命お祈りした少年時代のことや、それから、今日に至るまでの長い生活の間に、たびたび申しましたように自分が背中に神を感ずる、だれかが私をいざという時になると押してくれている、Xが私をある方向に運んでいっているという感じ、そういうものが、勉強で得た知識や観念で得た宗教理解と共に、私の中で、もっとも強く働いているのです。私は何度も、神というのは、存在を証明することはできない、しかし、その働きを感ずることはできるものだ、と言いました。神は、目の前に置いて見えるものではありません。目の前に置いて、対象として証明することはできません。しかし、背中からだれかが押してくれているという感じ方でとらえることはできます。あるいは無意識の中で、神が働いているという感じでとらえることはできます。キリスト教徒でも仏教徒でもない人たちが、自分の過去をずうっと振り返られるならば、きっと、「あっ、なんと幸運だったんだろう」とか、「どうしておれは人生でこっちの方向に来たんだろう」というふうに、後ろから押されていた感じというものを幾つか持っているだろうと思います。その後ろから押してくれている力というものを仮にXとする時、そのXを神と名づけようが、仏の働きと名づけようが、あるいはキリストの働きと名づけようが――いや、そういう言葉がいやならばタマネギとでもジャガイモとでも私は呼んでいいと思います。その人の人生に、そのタマネギが、どんなに目に見えずにこっそりと働いていたかを、ある日、その人は考えるときがあるでしょう。その時、人は、そのタマネギが一体何であるかということをもっと知りたくなるでしょう。それが、私の言う、十パーセントの無意識のところで信じているものなのです。

 

神は汚ないものの中にも反応される

 

人間の一切のものが、自分の無意識の中の働き、魂の中の働きにつながっていますから、人間の中のきれいなことだけ書けばいいというようなことでは文学になりません。汚ないところをも書かねばなりません。その汚ないところへ働く何かがあるのですから。しかし、その働きのことは書きません。書くと護教小説というか、キリスト教を守るような小説になって、文学として昇華したものになりません。いやらしいことを書いても、書かない部分において働きがあるんだという気持は、私の心の中のどこかにあるのだと思います。(中略)人間の中のきれいな部分ではなくて、人間の中の交響楽に対して反応を示すものでなければ、つまりいいところには勿論、いやらしい部分にも反応を示すのでなければ、本当の宗教ではないという気持が私にはあります。(中略)キリスト教は、人間のきれいな部分に対してのみ反応を示す宗教か、人間の中の美醜善悪すべてに対して反応を示す宗教かという問題があります。小説を書いているうちに、宗教はあらゆるものに反応を示すものだろうという考えが、だんだんしてきました。>(p19~43)

「聖書の女性には、二つの型がある。ものすごく激しい女、その激しいものを通してイエスに接近した女、一方は、自分の悲しさ、苦しみを通して、イエスに接近した。いずれも、仏教のほうで言うと、煩悩や執着です。しかし、こういう煩悩や執着が逆に彼女たちを神に接近させているというところが、キリスト教と仏教との大きな違いだと私は思うのです。キリスト教というものは、煩悩を捨てろとは言いません。全く言わないとは言いませんけれど、その煩悩の中に神の働きがあるということ、それがキリスト教です。イエスに顔を向けさせたものは、マグダラのマリアの場合は男の遍歴です。娼婦をイエスのところに行かせたのは、彼女が犯した罪です。長血をわずらう女がイエスに会ったのは、彼女の病気から解放されたいという執念です。問題は、仏教で言うそういう執着というものが、逆にイエスのほうへ引っぱっているという、そこがやはり私がキリスト教にひかれる所以なのです。」(p101~102)

「仏教では母に対する執着をも捨てなさいと言われる。しかし、キリスト教では、母親への執着が別の世界へ導いてくれるぞという考え方に転化できるわけですから、つまりマイナス・イコール・プラスであるという考え方なのです。キリストは、いやな人間の中にもいます。いい人間の中にもいます。だから、私は他人の中のキリストにいつも会っているではないか、と思うと、私にはとても気楽なのです。」(p129)

「私は人によく言うのですが、君は神様を問題にしないかもしれないけど、神様は君を問題にしているのだ、問題にしている以上は、形を変えていろんなことを神様はやってくださっていると。神様はいいほうに向かわせてくれるという一種の信頼感があります。だから、私は信仰を強制する気は全くない。(中略)私は、人間には神を求める心があれば、まずそのままでいていいと思うのです。つまり神は働きだといいましたけど、その人がキリストを問題にしないでも、あるいは仏さんを問題にしないでも、キリストが、仏が、その人を問題にしているから、大丈夫、ほっておいていいのです。というのは仏教で時節到来という良い言葉のあるように、人間が神や信仰に目覚める時節は人生にいつか到来するからです。ひょっとするとそれは死のまぎわかもしれないが、死のまぎわでもよいのだと私は思います。

では、キリスト教徒にならなくても、キリスト教は救ってくれるのかと言う人がいますが、もちろんそれは大丈夫救ってくれます。ただ救ってもらおうという期待感だけは持っていなくてはなりません。救ってくれるから自分はあくせくしない、というのならそれでいいじゃありませんか。救ってくれようが、救ってくれなかろうが、おれの知ったことじゃないよというのに比べたら、救ってもらおうという期待感を持つことは確かに一歩前進だからです。それに、いままで宗教に縁がないと思っていたのに、自分の過去や人生を振り返ったり考えたりしたら、私みたいな場が与えられ、後ろから押されるということと同じことがあったと思い当たる人がいるのではないかと思います。だれの心にも仏教でいう阿頼耶識があり、だれの心の奥底にもキリスト教でいう魂というものがあるなら、そこで働いているXを感じるか感じないかということが、信仰の出発点だと思うんです。何を信じているかと言われたら、それは神や仏とよばなくてもいい。自分を超えたXでもいい、タマネギでもいい、その段階においては、別にキリスト教徒でなくてもいい。それから聖書を読んでみて、それが自分にピタリと合うものがある。仏教の本を読んでみると、ピタリと合うものがある。あっ、そうだったのか、私の心の奥底に、無意識に阿頼耶識の中で、因果が働く無明の世界があり、それを救うのが仏なのかと感じたら、仏教に行けばいい。ポーロが戒律を捨てて――戒律というのは意識だから、意識の世界を捨ててしまって――ということは、仏教でいうならば分別の世界を捨ててしまってということでしょう、そこで仏にすがって仏を信じるのでしょうが、ポーロはキリストにすがったのです。その点ではキリスト教も仏教も全く相重なるところがあります。」(p192~196) 

 

遠藤氏の「神」観は、明らかに、八木誠一氏の「場所論」の影響を受けている。そんなに昔から八木氏は「場所論」を語ってきたのだと、あらためて思わされた。 特に次の箇所は「場所論的」神学が反映している。もっとも当時はまだ、そのような概念化はされていなかっただろうが、八木氏の思想の中で、「場」としての「神」、非対象的「神」は語られていた。

 

「生まれてから現在につながる糸があるとすれば、その糸にずうっとある力が働いていたのだなという感じを持つのです。・・・・この大きな場で私は生きてきたという気がするのです。それを私は神の場とよびます。・・・・私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。その時神の働きを感じます。このことを私は『沈黙』の最後に主人公の口を通して書きました。」

 

その『沈黙』の最後の主人公の言葉は、遠藤氏は上記のとおり「『おまえの人生を通して私が語っているので、沈黙しているのではない』と書いた」と述べておられるが正確には「そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」という一文である。「私の今日までの人生があの人について語っていた」という意味は、「神」(とイエスとの区別は判然としないが)は主人公であるロドリゴ司祭の人生を通して語っていたのであって「沈黙」していなかったということである。これは場所論的神論の「人間を通して働く」その「働き」としての「神」ということと一致する(しかし八木氏の言う「神」は「はたらき」とイコールではない→当サイトの、<「人格主義的」神学と「場所論的」神学>参照)。それもそのはず、遠藤氏自身、そのエッセイの中で、「私はこの点をすぐれた聖書学者の八木誠一さんに接することで学びました。」と述べており、「この点」とは「自己」に目覚めること、無意識での働きについてのようだが、結局、神を「場」とか「働き」と述べていることもひっくるめて遠藤氏は八木先生から学んだものと思われる(ただし誤解またはアレンジがある)。そして「人間を通して働く」その「働き」としての「神」が『沈黙』の主人公ロドリゴの人生に於いても働いたというわけだ。

 

神は沈黙しているのではなく、「神の沈黙」に絶望した人間のその後の人生を通して語っているのではないか、という神の答えの暗示なのだ。『沈黙』の終わりに付された「切支丹屋敷役人日記」に記録されたロドリゴの三十年後の死がそれを示している。評者はしばしば、読者がこの部分を読み落としていることを指摘して、『沈黙』の主題の隠されていることを強調するが、たしかにこの結末を読み落としていては「神の沈黙」の真の意味は見えてこないというべきである。 (武田友寿: 『「沈黙」以後』85・6 、女子パウロ会)>

 

ところで、映画『沈黙 ーサイレンスー 』(原題:Silence)では、ロドリゴが捕らわれている時に、御子キリストの十字架での「わが神、わが神、なぜ、わたしをおみすてになったのですか」という言葉を想起し、「あなたはイエスにも沈黙していた」云々とつぶやく場面がある。『沈黙』においてイエスは、「神」として「沈黙」している理由を問われる相手でもあるが、同時に「神」(=父)から「沈黙」される相手でもあるということだ。ロドリゴが踏絵を踏む場面で、イエスらしき人の声が「踏むがよい」云々を言うが、「神」としてはロドリゴの全人生を通して語る存在であるとされている。

ただし『沈黙の声』と題された本(→解説によると、『沈黙』の刊行から二十数年が経った平成四年三月に、遠藤氏が東京と長崎で『沈黙』について話した模様をブック&ビデオ『沈黙の声』〔プレジデント社〕に収録した時に書き下ろされた百ページに及ぶエッセイ)では次の引用のとおり、遠藤氏自身は当初、「沈黙」というタイトルにするつもりはなかったそうで、「神は沈黙したのではなく語っている」ということを言いたかったとのこと。

<私はいかにも大げさなタイトルは嫌いな性格なので、はじめ『ひなたの匂い』と題をつけて出来上がった原稿を出版社へ渡した。ところが出版部の友人が、これでは迫力がない、やはりこの内容なら『沈黙』ではないかと言ってきた。打ち明け話をすれば、当時ベルイマンに『沈黙』という有名な映画があり、私としてはどうも気が進まなかったのだが、結局は『沈黙』を受け入れた。その結果、実は困ったことが起きたのだ。出版したあと、日本の読者や批評家から、「これは神の沈黙を描いた作品」と錯覚されたのである。私の意図は、「神は沈黙しているのではなく語っている」そういった「沈黙の声」という意味をこめての『沈黙』だったのである。小説のタイトルが誤読を招く原因になったわけで、それを予測しなかった私がいけなかったのだろう。沈黙という言葉がそのままストレートに受け取られるとは思っていなかった。たとえば女が男に「あなたを嫌い」といったときには「好き」という意味がこめられているのと同じに、自分のタイトルもそう解されるだろうと思い、無造作に『沈黙』と付けたことがいまは悔しい。だからこの年齢になったいま、もしあの小説を書き上げたとしたなら、『沈黙』という題は付けていなかったと私は思っている。どのように頑張ってでも『ひなたの匂い』のような、いわばストレート・ボールではない題を選び取ったに違いない。『沈黙』という題はいかにも大げさで恥ずかしいのである。(中略)はじめに付けた『ひなたの匂い』は少し解りにくいかもしれない。が、私としては次のような想いをこめたつもりだった。つまり人生がすべて裏目に出てしまったフェレイラ――彼は死刑囚であった日本人の女房子供を押しつけられ、しかし人のために何かをしたくて医者の仕事をする。ところがときどき奉行所から呼びだされて、たとえば中国から来る船で怪しい者が入りこんでいないか、あるいは切支丹本が入っていないか、そんな取り調べに立ち合わされている。いわば屈辱的な日々を送っている男が、あるとき自分の家のひなたのなかで腕組みしながら、過ぎ去った自分の人生を考える。そういうときの《ひなたの匂い》があるはずだと思った。言いかえれば《孤独の匂い》だろうが、私はそのイメージをタイトルにしたかったのである。(中略)

日本ばかりでなく外国の批評家たちも『沈黙』というタイトルには惑わされたようだった。各国で私の作品を論じてくれたが、やはり『サイレンス(沈黙)』という言葉があまりに強い響きを持つために、それに振りまわされていたようだった。だから私としては自分で否定しなければならなかった。あの小説が発表されたときにはいろいろな批判がキリスト教会から出されたが、それもほとんどの場合、「神は沈黙している」と解した人びとからのものだったようだ。(中略)キリスト教のなかでも、カトリックよりはむしろプロテスタントの方たちが読んだと聞いている。カトリック教会でもほとんど禁書にひとしく、「『沈黙』は読まないように」とミサで言った神父も、いたのである。>(p54~62)

 

この小説を最後まで読めば、「神は沈黙している」という主旨で書かれたわけではないことは誰でもわかるだろうから、実際に誤解した人がそんなに多かったとは思えない。解説の加藤宗哉氏によると、遠藤氏は、自分が書いた「沈黙」のオリジナル原稿を学生に焼失されたと虚偽のことを述べているので、これもどこまで本当かはわからない。

いずれにせよ、「ひなたの匂い」ではあれほど売れることはなかっただろうし、この小説の内容からして「沈黙」と題することは実に自然なことである。

 

八木氏の影響を受けた遠藤氏だが、一つ、独自的と思ったのは、遠藤氏の言う「働き」は「悪の中にも罪の中にも・・・ある」ということ、つまり「どんなものにも神の働きがある・・・病気でも、物欲でも、女を抱くことにでも」と言われていることだ。これは八木氏の言われる「自己・自我」の自我ではなく、むしろ「単なる自我=罪悪深重煩悩熾盛のの凡夫」である。しかし逆に、場所論的神学は「悪」とか「罪」の現実をどう捉えるのかという問いが生じる。これは『一神教とは何か 公共哲学からの問い』の中で述べておられる「悪の場所論」の問題だ。

 

八木氏が「神義論は人格主義的神論の問題である。他方、場所論的に考える限り、神は人間を通して働くのである。」(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東大出版会〕p18)と述べておられるとおり、『沈黙』は人格主義的神を信仰し、神義論に陥り、神の不在感に襲われ苦悩するロドリゴという一人の人間を通して働く「場」としての神を示している。

それと、「キリスト教徒にならなくても、キリスト教は救ってくれるのかと言う人がいますが、もちろんそれは大丈夫救ってくれます。」という遠藤氏の発言は間違いで、救うのは「キリスト教」ではなく「キリスト」だと思う。

それと遠藤氏は、一方では「人格主義的」神観も持ち合わせており・・・というか伝統的キリスト教がそうで人格神観である以上、そういうものを棄て去ることはできないはずで、それは教会生活の経験がない八木氏と違う点だろう。八木氏のいう、はたらきの場としての神も人格的に語らざるを得ないとかいったこととは違って、パウロも確かに人格神観を持っていたはずだ。なにせイエスからしてそうなのだから。彼らの思考や言葉に場所論的な面があったとしてもそれはけっしてメインではない。

とにかく遠藤氏は、旧約は父親の宗教で新約では両親の宗教にし、やや母親のほうに重点を置いたと述べている(『対談集 日本人はキリスト教を信じられるか』〔講談社〕p69 ※ここで遠藤氏は「イエス」を主語に、「キリスト教」を目的語にしているがこれは不適切。イエスは「キリスト教」の創唱者ではないから)。そして意外にもこうした遠藤氏の母親的神観を聖書的に補強する学説がある。以下、引用。

<比喩の感覚や意識が失われると、旧約の人びとが非常に大きな感動をもって認識し、その感動を伝達しようとしたところの神の現実性が、われわれに伝わらなくなってしまいます。神の現実性を伝達する場合、旧約の人びとは、じつにさまざまな隠喩を用いているからです。ところが、どうしたわけか、キリスト教といえば、一般に、神は父である、しかも非常に厳しい父である、といった固定観念が定着してしまっているようです。しかも、それを盾にとって、たとえば遠藤周作氏が「母」としての神の現実性を描き出すと、あれはほんとうのキリスト教ではない、といった反論が内外から起こるのは、じつに悲しむべきことで、比喩性やその豊かさが見失われている証拠ではないでしょうか。早い話が、イザヤ書66,13を開けてみると、そこには「母がその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める」とあるはずです。これは形式上は直喩ですが、内容的には隠喩で、神を「慰める母」としてあらわし、来たるべき救いの現実性をメッセージ化しているのです。また、イザヤ書49,15の「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしはあなたを忘れることがない」という表現も同じことです。しかし、これに対して、ひょっとしたら、イエスは「アバ、父よ」と教えられたではないかと反論が出るかも知れません。では、マタイ23,37やルカ13,34の「ああ、エルサレム、エルサレム、ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことだろう」という言葉はどうでしょう。神の愛の現実性が、めんどりの母性にたとえられているのです。これはおそらく旧約のイザヤ書31:5や詩篇17:8、57:2、63:7、申命記32:11などの「母どり」の比喩がヒントになっていると思われます。旧約聖書には、このほか、夫婦関係(ホセア1-3、エゼ16:23、エレ3、イザ54:4以下など)、王と僕の関係、羊飼いと羊の群れ(エレ31、エゼ34、イザ40:11)、誘惑者と乙女の関係(エレ20:7以下)、城、岩など、神に関してじつにさまざまな比喩が使われています。旧約の人びとは、このようにさまざまな比喩を状況に応じて創り出すことによって、神を固定観念に偶像化するあやまちを避け、しかも相対的な関係のなかに働く神の現実性そのものを比喩的に認識し、伝達しようとしたのです。特定の比喩を固定観念として、それに束縛されるとすれば、それもまた偶像化だからです。>(~野本真也氏の論文「比喩としての旧約テキスト」)聖書箇所の引用での表記はわかりにくいので直した。

http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00004188&elmid=Body&lfname=430101.pdf

御主旨はごもっともです。しかしイエスの神観が「アッバ」という呼びかけに示される父性的なものを中核にしていることは、その頻度からしても客観的に言えることではないだろうか?従って遠藤氏の主張はやはり聖書的根拠を得ないと私は思う。なぜなら遠藤氏は父性を「厳しい」もの、「裁くもの」、「恐いもの」という偏った観念で捉えているからであり、逆に母性的神観の短所に対する視点が欠如しているからだ。それは前掲書の対談で遠藤氏自身が、「隠れ切支丹が統計的にいちばん拝んでいるのはでうすでもなければイエスでもない。つまりマリアだ。マリア観音だ。つまりここで主なる宗教を母なる宗教に転化してしまった。母なる宗教というのは汎神論に非常に通じやすい道だからね。」(※「でうす」は傍点あり)と述べているがその「汎神論」をネガティブな意味で言っているとも思えない。

そもそも遠藤氏の信仰表現は「思想」と言えるほどの一貫性や体系性を欠き、相手次第、状況次第で変化するし、内容的に辻褄の合わないところがある。「対象ではない」とか「働き」とかいわれる神理解は八木誠一氏のパクリと思われる。全般的に見て私は遠藤氏のキリスト教に関する叙述は信用しない。そして傲慢な面もある。たとえば、前掲書の対談では、堀田神父がせっかく遠藤氏をおだてているのに自分からケンカを売るような言い方をして、そのカウンターで神父から「遠藤さん、はっきり言って、あなたのキリスト像は主観的なキリスト像なんですね。」と言われると、「そんなことはない、私の『イエスの生涯』は客観的ですよ。その点についてはいくらでも論争に応じるつもりでいます。」などと・・・遠藤氏の友人だったらしい田川建三の言い方なら「バカも休み休み言うほうがいい」って話である。何が客観的なものか、主観もいいところである。田川のような人物と付き合うから過信し傲慢になる。朱に交われば赤くなるのだ。堀田神父もホンネが出て「聖書を理解するに当って、あらかじめ持っておられる一定の枠に、うまくはまる部分は取り上げ、はまらない部分は切り捨てるといった意味で、主観的解釈であると言ったのです。」と述べているが、そういうことを言うくらいなら、「しるしなんか取りのけちゃって、直接にキリストそのものが信じられるというのは、すばらしいことだと思うんです。その点では、私なんかよりも、ずっと遠藤さんのほうが信仰が深いと感じているわけです。」などとおだてたり、「復活が何よりも重大であるという考えからすれば、私の立場は遠藤さんの立場と、まったく同じかどうかわかりませんけれども、近い、ということはできると思います。」などと共感しないことだ。神父のそういういい加減で曖昧な態度にも問題がある。遠藤氏の復活理解は基本的に心理主義であり、「新生体験」の解釈と同じである。すなわち、エッセーの『私のイエス』2章「聖書の中の真実のイエス」では、「自分たちの卑劣な裏切りに怒りや恨みを持たず、逆に愛をもってそれに応えることは、人間にできることではありません。少なくとも、弟子たちは自分の今日までの人生の中で、そのような人を見たことはありませんでした。今日までの人生だけでなく、ユダヤの歴史に出現した王や預言者にも、そのような人は一度も出現しなかった。その驚きは弟子たちに烈しかった。そして彼らは、イエスがまだ、自分たちのそばにいるがごとき感じがした。子どもにとって、失った母が、その死後も、いつも横にいる気持ちと同じような心理になったわけです。それが、イエスの復活のはじまりだったのです。」と述べているとおりだ。もっともこのような弟子たちの心理による「復活」の謎解きは『イエスの生涯』では、「そういう心理だけでは、彼等といえどもその後半生の生涯をささげあらゆる苦難にうちかって布教に努めることはできなかった筈である。弟子たちのような弱者はこうした心理を持っていても、それをいつまでも持続できなかったであろう。」云々で、「と、するならば彼等には別の次元から何か筆舌では言えぬ衝撃的な出来事が起ったと考えるより仕方がない。」と述べ、幻視説も否定され、『キリストの誕生』ではイエス自身に「X」記号で示される神性が認められているから、その点では確かに伝統的「復活信仰」を遠藤氏も持っていたと言えるのかも知れない。しかし私見では遠藤氏自身の復活理解の重きは「心理」の方にあるし、だからこそ弟子が生き残りのためにユダヤ教と取引をしてイエスを見捨てたという小説としての奇説に結び付いているのだ。奇跡を起こせない逆説的強者としてのイエスを愛した遠藤氏にとっては、復活して昇天するイエスよりも復活せず弟子たちの心の中に生き続ける同伴者イエスの方が文学的だし魅力的だったのではないだろうか・・・。とにかく遠藤氏は『沈黙』でも『死海のほとり』でもそうだが、聖書学的視点から公教要理的伝統を脱構築し、教会的イエスと個人的イエスとを区別しているし、『私のイエス』では「異端とか異教徒という言葉は、いまでは無意味である」と述べ、『深い河』では明らかにキリスト教を超えて宗教多元主義的境地に至っている。その結果からみても遠藤氏の信仰内容が「復活」にせよ何にせよ、本来は正統主義的カトリックの神父などがおだてたり共感するようなものではなかったとみるほうが自然である。

 

 

遠藤氏の旧約と新約の神観の区別について

空海が日本に初めてもたらした密教の怒りの仏、憤怒像の代表格である不動明王は、単に怒りだけではなく慈悲の心を持ち合わせているという。山我哲雄氏は「二重表現」という言葉を用いておられたが、不動明王の肌は赤子の無垢な肌を表わしているという。空海が不動明王を掘らせた仏師、忍忠は、自身が妻子を失い、仏の不在感によりノミを捨てたという。そこに疫病と飢饉による不条理の時代背景があり、キリスト教神学でいうところの神義論と通じる人間の心理がある。その不条理に対する怒り、その怒りを向けるべき対象が無いという「空」の現実が不動明王の怒りの背景にある。仏は人の心を形にしたものであるから、キリスト教的にみれば、仏は神に対する人間の思いを表わしている面もあると言える。もっとも仏と関連する「神」は守護神であり、キリスト教的「神」とは異なる。仏が対峙するものは人間を支配する自然の力であろう。

怒りの中にも慈悲を併せ持つという考えは、旧約聖書の神理解に役立つ。遠藤周作は単純に旧約の神を怒り、新約の神を愛として神観の区別をしたが、そこには根本的な誤りがある。まさに旧約の神こそ、怒りと慈悲を併せ持つ存在だからだ。人は愛だけでは生きられない。ダメになる。・・・というか、愛を知るには怒りを知らなければならないのだ。

当然のことながらイエスにも怒りの顔がある。遠藤氏のイエスのように愛だけの顔というのは幻想にほかならない。

 

<キリスト教というのは、厳しい面と同時に、ものすごく寛大な面と、両方持っています。だから、私は両親の宗教とよく言うのです。つまり雷おやじの面と、やさしい慈母の面と、二つ持っているのです。ところが、不幸にして、内村鑑三という人が厳父のイメージのキリスト教を日本のインテリに運んでしまった。だから、正宗白鳥なども一時はキリスト教から逃げていってしまった。白鳥は浄土真宗のやさしさがキリスト教より自分の心に合うと書いています。日本の場合は、厳父の裁きのイメージのキリスト教を持ってきたら根付かない、というのが私の考えです。母のイメージを持ってきたほうが日本人の感覚に合う。母の面のほうがうんと多く聖書の中には書かれています。キリスト教にはこの両方の要素があったのですが、日本へ布教されてきた場合、厳しいほうが強調された。なぜかというと、プロテスタンティズムの中には、救われるには、神の恩寵とそれに本人のものすごい努力とが厳しく要求される一派があり、厳しい禁欲を強いたりしますから、そういう部分が日本へ入ってきて、キリスト教全体を狭き門と考えてしまったのではないでしょうか。そこへもってきて、トルストイでしょう。トルストイはよく読まれましたから。キリスト教というのは、いろんな要素を持っているにもかかわらず、時代によってある一面だけが強調されることがあるのです。いまみたいに社会革命が盛んに要求されている時代には、聖書の中から社会革命者としてのイエスを探し出そうとします。キリストは金持、富んでいる階級とは絶対つきあわなかったところが強調されるのです。母のイメージがキリスト教にはないかといえば新約聖書のいたるところにあります。一方、父のイメージ、おっかない父のイメージのような神は旧約聖書の中にたくさん載っています。旧約聖書は、キリスト教の聖書というより、ユダヤ教の聖書だからです。それをひっくり返して、母の宗教にしたのがイエスだったと私は思うのです。しかし、イエスの教えの中には、もちろん父の部分もあります。たとえば前にも申しましたように、神殿という神聖な場所で物を売ってはならぬと、物売りを厳しく叱る場面もある。しかし、それより母のほうがうんと多く聖書の中には書かれています。キリスト教にはこの両方の要素があったのですが、日本へ布教されてきた場合、厳しいほうが強調された。なぜかというと、プロテスタンティズムの中には、救われるには、神の恩寵とそれに本人のものすごい努力とが厳しく要求される一派があり、厳しい禁欲を強いたりしますから、そういう部分が日本へ入ってきて、キリスト教全体を狭き門と考えてしまったのではないでしょうか。そこへもってきて、トイルストイでしょう。トルストイはよく読まれましたから。>(~遠藤周作著『私にとって神とは』〔光文社.1983年〕p112113

 

「永遠の命、それは唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知るようになることです。」(ヨハネによる福音書 小林稔訳)

 

「それゆえに、あなたがたは互いを受け容れなさい。ちょうどキリストもまた、神の栄光のために、あなたがたを受け容れて下さったように。」(ローマ人への手紙15:7青野太潮訳)

 

「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものなのである。」(コリント人への第一の手紙3:23 青野太潮訳)

 

キリストの頭は神であるということを、あなたがたに知っていてほしい。」(同上 11:3 同訳)

 

「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(同上、15:28 同訳)

 

<パウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっている>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』p5)

 

「一コリント一五章においては、キリストの支配がはっきりと神の主権の前で限定されたものとなっている。」(同上書 第一部 5章)

 

「事実、神は唯一人(ただひとり)、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(テモテへの第一の手紙2:5 保坂高殿訳)

 

 イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。>(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p15)

 

<キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。>(小田切信男著『福音論争とキリスト論』p145)

 

「万物がキリストに帰一して、然る後に神に帰一することが、救済の完成でありますから、キリストの業の終る所がある訳であります。そこにキリストの仲保者性の限界があると言えるでありましょう。」

(同上、p215)

 

<神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は「イエス・キリストのみが――全知なる神である」となって「父なる神」を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。>(同上、p263)

 

神はやはり唯一の神――父なる神――であっても子なる神とも、また純粋の霊だけの神とも語られません。要するに三位一体論そのものが、神を客観的にあげつらう論理として既に思い上った論理であります。そしてこれは、イエスも使徒も語らなかった神観であり、明らかに異教化したものと言えましょう。キリスト教界はこの三一神観という信条・教理についても福音の光で検討を加え、多神化しようとするキリスト教の異教化を徹底的に排除すべきではありますまいか。>(同上、p366)