以下は、『井上洋治著作選集 1』(日本キリスト教団出版局)より引用(ルビや傍点などは省略)。(中略)は本文にあり。〔中略〕と赤は自分の表記。
(以下、引用開始)
神はあるのかないのか、あればどんなものだ、という質問を発するまえに、私たちはまずその質問自体が当を得ているものなのかどうかということを考えてみなければなりません。〔中略〕もしある人に、〝神はあるのか〟ときかれても、私たちはその問いに正確に答えることはできません。〝神はあるともないとも言えません。神は普通の意味での、あるとかないとかいう領域を超えているからです〟と答えるしかないでしょう。
一般に私たちのイメージなり言葉なりをあるものについて持つことができるためには、私たちはそのものの外側にいて、外側からそのものを観察したり、そのものについて考えたりすることができなければなりません。ものを見たり考えたりする主体である自分と、見られ考えられている客体であるものとが分かれていなければなりません。したがって、もし私が神の外側に主体として立つことができて、外側から客体としての神について考えるのならば、たしかに神について普通のものと同じように、あるとかないとかを論ずることもできるでしょう。しかし、そのときには、その論じられている神というものは、私に対して存在している単なる相対的な一つのものにすぎず、もはや絶対でも無限でもないことになりましょう。それは絶対なる神を相対の世界に、偶像の世界に引きずりおろして、多くのもののなかの一つのものとしてしまうことであって、まったく大きな誤りだといわなければなりません。
主体-客体の分離と対立を超える世界に、私たちは論理や言葉によって入ることはできません。〔中略〕
論理と知性を重んじるギリシャの伝統を受けついだ中世キリスト教の代表的神学者トマス・アクィナス(1225-74年)は、神についての思惟を〝類比概念〟という考え方によって正当化しようとしました。類比概念というのは、一つの同じ概念が二つ以上の本質的に異なった対象に対して適用された場合に、この本質的には異なっている対象同士が、しかしある面において共通性を持っているために、この概念がまったく正当に両対象に対して使われうる場合にいわれます。〔中略〕
そしてトマス・アクィナスは、神について私たちが思惟し語る場合、たとえばベートーベンの音楽が美しいといい、同時に神が美しいという場合に、ベートーベンの音楽と神とには絶対的な違いがありながらも、しかも類似しているという点があるということを認めて、この美しいという概念は決して誤って神に対して使われているのではなくて、類比概念として正当に神に対しても使用されていると論じているわけです。
アウグスチヌス、トマスの系列につらなるヨーロッパ・カトリック神学の主流はすべてこの類比概念を認める立場に立っています。それでなければ神学そのものが学としての成立根拠を失ってしまうからです。
しかし私にはどうしても、この立場はあまりにも神を自分に対して立つ一つの何かと考えすぎていて、真の意味での神の絶対性、神について考えることはできないという点を軽んじすぎているように思えてなりません。
イギリスのプロテスタントの神学者ロビンソンが、その著『神への誠実』という本のなかで、上なる神と外にいます神という神の像は現代の科学的世界像の前には崩壊し去る運命にあり、〝われわれの存在そのものの根底である神〟という考え方に立ちもどらないかぎり現代人はもはや神を認めることはできないだろう、と述べているのはまことに当を得た議論だと思わざるをえません。
その点、ギリシャ教父たちの系列につらなるロシア正教の神学者たちの方が、もっとよく対象となりえない神というものをとらえていたといえると思います。現代の日本人である私たちが、神や神の国や天地創造といったようなキリスト教の教えを深く自分のものとするためには、さらに一歩掘り下げて、東洋に伝統的な無という考え方を理解することがほとんど不可欠であるとさえ私には思われます(無については91頁以下参照)。
四世紀にバジリウスといわれる教父がいます。彼は普通カパドキア学派という名でしられている学派に属する一人ですが、そのバジリウスにとっては、ただ神だけではなくて、すべてのものの根底は論理と概念の踏みこむことのできない世界であり、この根底こそが、そのものを真にそのものたらしめているものなのでした。また同じカパドキア学派のニッサのグレゴリオは、神に関していわれるすべての概念はおよそ偽物であり偶像であって、私たちが頭で作りあげる概念は真実の神を私たちに示さずに、かえって神の偶像を示すにすぎないものであるとさえいっています。私たちは、五世紀の終り頃と推定される偽ディオニシオと一般に呼ばれているある著作家の『神秘神学』と題する本の次の一節に、あたかも禅家の言葉をきく思いがします。
彼(神)は言語を絶し知解を絶する。(中略)大に非ず小に非ず、同一に非ず類似に非ず区別に非ず、彼には止なく動なく静なく、また力にでもなく無力でもない。(中略)彼は一でもなく多でもなく、神性でもなく至善でもない。(中略)また存在する何ものでもなく、存在しない何ものでもない。暗に非ず明に非ず、真に非ず偽に非ず、彼は肯定されうべくもなく否定されうべくもない。
(『宗教とその真理』[柳宗悦宗教選集第一巻]春秋社、1990年、176-177頁)
今世紀ロシアの神学者ウラジミル・ロスキも、東方教会を一貫して現代に至るまで流れてきた姿勢は、このアポファティズムの神学であると言っています。
アポファティズムの神学というのは、カタファティズムの神学に対立する意味で使われており、カタファティックというのがギリシャ語で<言語による>という意味であるのに対し、アポファティックというのは<言語によらない>という意味です。ロスキは西ヨーロッパの神学では、つねに神について語らんとする神学がその主流を占めていたのに反して、東方神学は一貫して神についての概念や言葉をつくりだすことをいっさい拒否する神学の態度を保ってきたといっています。
偽ディオニシオの著作が偽作であるとわかったのは今世紀に入ってからのことであって、中世を通じてずっとこの著作は、『使徒行伝』17章にでてくるパウロの弟子、アテネの裁判官ディオニシオのものであると考えられていました。したがってこの著作の持っていた権威は中世ではたいへんに重く、トマス・アクィナスなどもこの著作のもつ新プラトン派主義を自己のよって立つアリストテレス哲学にそって解釈してゆくことにたいへん頭をなやませたほどでした。この著作の権威がたいへん重かった以上、もちろん西欧にもアポファティックな傾向を持つ思想家がいないわけではありませんでした。十七世紀スペインの思想家十字架のヨハネの次の言葉はよくそのアポファティックな思想をあらわしているといえましょう。
〝この人生の上にしばしあたえられる神の恵みのうちで最大のものの一つは、わたしたちが神について全く何も知り得ないということを、かくも明白にかくも深遠にわたしたちに知ることを神がゆるされたということである〟
しかしアポファティックな神学が、ヨーロッパ神学の流れのなかでは遂に主流となることができなかったということは、私たちはこれを認めなければならないでしょう。
〔中略〕
この何かは理性では考えられなくても、全存在によってこれを体験することができます。この何かを、言葉を超えたもの、言葉にはならないものという意味で無とよぶなら、私たちは決して無について考えることはできず、無はただ生きて体験する以外に仕方のないものだといえます。
神はこの絶対に対象とはなりえない何か、すなわち無において己れをあらわすかたなのです。その意味で無は神の場であるといえるでしょう。
神が、無を生き体験する行為の中にしか己れをあらわさないとするならば、神を対象化しうる一つのもののように考えて、〝神はあるのか、ないのか〟というような問いには、先にも述べたように、〔中略〕的確な答えをあたえることはできません。その問い自身が間違った問いかけだからです。
〔中略〕
イエスにとって神は単に知られざる何かではありませんでした。ストア派が考えたような無味乾燥な宇宙を貫く原理といったものでもなく、またユダヤ人たちが考えていたような、聖なる神、審く神、罰し怒る神でもありませんでした。
イエスにとって神は何よりもまずアッバ(父よ)と呼びうるかたでした。
前にも繰り返し述べたように、私たちはこの父という言葉を、私たちがその外に立って、目の前のものに区切りをつけるレッテルのような、抽象的客観的概念と考えてはなりません。そうしないと、イエスも私たちも、共に神の外に立っているというたいへん奇妙なことになり、神をまたまた戯画の世界におとし、偶像化することになってしまいます。
アッバ(父よ)という言葉は、イエスにとって、その深い神の子の自覚と体験からうまれた言葉です。決して対象についての区切りのレッテルのような言葉ではなく、そうとしか言いあらわしえないような深い生の体験の表現なのです。言いかえれば、父という言葉は、イエスが神の外に立って神について語っている言葉ではなくて、神との一致を子として体験したイエスが、己れの生の体験を言葉化したものなのです。
宇宙を貫く原理だとか、大生命だとか、無だとかいうものに対しては、私たちは祈りを捧げることはできません。イエスのアッバという言葉には、神は、対象化できない、私たちがその外に立つことはできないかただけれども、祈りを捧げることのできるかたであり、父のように深い愛をもって包んでいてくださるのだという、子としてのイエスの強い体験と確信が溢れているのです。
パウロのいうように、私たちは神と離れてあるのではありません。神は、それなしには私たちは私たちでありえず、生きとし生けるものはみなそれぞれのものたりえない根源でありながら、しかし同時に限りなく深く私たちひとりびとりを愛してくださる愛の父である、というのがイエスが私たちに示した神であり、神の愛にいっぱいにみたされたイエスだけが示しうる神のすがたなのでした。
イエスはその教えのなかで、自分だけが体験しえた、父としか呼びようのない愛の神を語り、どうすれば私たちがはるかに低い段階でではあっても、その父の愛を体験しえたよろこびを自分のものとしうるかを、繰り返し呼びかけ語りかけているのだと思います。
(以上、引用終わり)
(以下、引用開始)
もちろん現在でもなお私は「日本におけるイエスの顔」を求め続けている一介の求道者にすぎないし、私の思索などは極めて粗雑かつ不完全なものにすぎない。しかし私としては、日本人キリスト者としてこの信仰以外には生きられないというぎりぎりの線を生きているつもりであるし、この際、今までの私の思索に対してなされてきた幾つかの批判に対してここで答えておきたいと思う。批判そのものが専門的でもあるので、いきおい答えも専門的にならざるをえない点もあるが、そこのところは御容赦をねがう次第である。
第一は『新約聖書』を、真理そのものを伝える書であるよりも、まずどうしたら永遠の生命が得られるか、を教えた実践指導の書としてとらえたことに対する批判である。〔中略〕
第二は、神を「無」としてとらえることについての疑問であって、「一体、無などというものに対して祈れるのか」という問いである。これは、神を「無」としてとらえるということは、神を非位格神――私は「人格神」という言葉を避けたいと思っている。というのは、人格神というと恰も神が私たちのような人格を持っていると考えられがちであるからで、折角「三位一体」という言葉が、比喩的な意味で新聞などにも使われるようになったのであるから、こと神に関しては「位格神」と呼びたい――としてとらえているのであって、祈りの対象としての神は位格神でなければならないはずだというわけなのである。
この問いに対しては、拙著『人はなぜ生きるか』の中の「私にとっての神」という章で、私は比喩をもって次のように説明した。
いま真暗な闇のなかに一人の人が立っているとします。しかし人間の目には何も見えないわけですから、ただ真暗で何も見えない、真暗だ、というしかないでしょう。そこに人が立っているということは、誰かそこにおられるのですかと声を暗闇に向けてかけてみたときに、その人の返事によってわかるわけです。即ち声をだして問うという行為をおこすことにより、答えが返って初めて、人がいるという体験的認識をうることができるわけです。即ち声をだして問うという行為をおこすことにより、、答えが返ってきて初めて、人がいるという体験的認識をうることができるわけです。〔中略〕無としかよびようのない何かにむかって祈るという行為をおこしたとき、初めて人は、ものとしてではなくて、かたとしての神の体験的認識を持つことができるようになるのだと思います。(『人はなぜ生きるか』講談社、1985年、79頁)
神はその本質においては、あらゆる概念化、対象化を超えている(「言わく言い難き」何か、即ち「無」としかよべないのであるが、しかし働きの次元――神の啓示ということは、この働きの次元に属する――、更にいえば、私たちとの関係の次元においては位格神として私たちに現前するのだ、というのが私の考えなのである(私はこの考えを多分に十四世紀の東方正教会の神学者、グレゴリオ・パラマスに負っている)。そしてこの神の働きを私たちの側から受け入れる行為が「祈り」というものに他ならない。
この神を「無」ととらえながら、しかも祈りの対象とするという考え方は、十三世紀のカトリック教会の思想家マイスター・エックハルトや、井筒俊彦さん氏の著作によく説明されている十二世紀のイスラムの思想家イブン・アラビーなどの神学を考えれば、別に特におかしいということはないことがわかるはずである。
最後にやはり私が提出している問題の最大のものは、「イエスのとらえた神理解」に対する私の考えであり、そこから生じてくる「旧約」と「新約」の関係の問題であろう。〔中略〕
一言でいってしまえば、青春時代にやりきれないような空しさを抱えて必死に私が求めていたものは、母性原理の強い神の、慈しみ深く暖かな悲愛の御手だったのである。そして、神を比較的父性原理の強い神として受けとってきた西欧キリスト教の歴史のなかで(マリアへの崇敬と信心は、父性原理の強い神の恐ろしさを緩和、補償する役目をしてきたものと思われる)、私見によれば、まさにテレーズは、その全生涯で母性原理の強い神の憐れみを讃えあげた、極めて稀な人物だったのである。〔中略〕
松本滋氏は、その著『父性的宗教 母性的宗教』のなかで、父性愛と母性愛を実にわかりやすく次のように説明している。〔中略〕
母親の子供に対する愛というのは、本来無条件的なものである〔中略〕
これに対して、父親の愛というものは、タイプとして考えるならば、条件的なものです。
〔中略〕
旧約の神ヤーウェは、この区別からすれば、もっとも父性原理の強い神を代表しているといえる。それは『出エジプト記』20章の、十戒をさずける場面一つをとってみても明らかである。この掟を守るものには幾千代にも及ぶ慈しみを与えるが、これを拒む者には三代四代までその罪を問うというのが、旧約の神ヤーウェなのである。
松本氏は、キリスト教の神をも、旧約の神と同じく、父性原理の強い神としてとらえておられる。ユダヤ・キリスト教というふうに、ユダヤ教とキリスト教を区別なく十把一からげにとらえ、ユダヤ教が砂漠の宗教だからキリスト教も砂漠の宗教だ、というのが日本の知識人の一般的な考え方のようであるが、これは根本的に間違っていると私は思っている。〔中略〕ユダヤ教の神ヤーウェが極めて父性原理の強い神であったのに対し、イエスの説いた神は母性原理の強い神だったのである。
もちろんユダヤ教の神とキリスト教の神が別の神だというわけではない。同じ神のとらえ方が違っているのである。〔中略〕
イエスが殺されたのは、具体的には彼が律法よりも悲愛を大切にしたからだと思われるが、しかし最終的には、父性原理の強い神を説いていたユダヤ教社会に、彼が母性原理の強い神を説いたからだと思われるのである。この考えは、本書『日本とイエスの顔』ではまだ明確なかたちをとっていないが、それ以後聖書の編集史研究の書に多く接するにつれて、ますます私の確信となってきているのである。
確かに、この私のイエス観、神観を受け入れ難いと思われる方も多いであろう。
(以上、引用終わり)
以下は、『井上洋治著作選集 1』所収の山本芳久氏の「日本の教父 井上洋治ーー神の『暖かさ』についてーー」より引用。
(以下、引用開始)
3 包む込む神
本書の第一部「日本人の心で読む聖書」の第一章「ことばといのち」において、神父は次のように述べている。
ヨーロッパ中世の代表的神学者トマス・アクィナスという人は、アリストテレスの哲学を土台として堅固な神学大系をつくりあげた人ですが、<自ら動かずして万物を動かす>というアリストテレスの第一原因についての考え方を神の存在証明に使用しました。トマス自身はそんな誤りは犯していませんが、その亜流の人たちが神を宇宙の外に対象としてある何かとしてとらえるに至ったことはかなり自然であったといわなければなりません。・・・私たちを超えて高いところにある超越としての神に重点がどうしても置かれてしまって、万物に内在し万物を包み込む神という点がおろそかにされていたことは否定できないように思えます。(本書21頁)
傍点の付された「万物に内在し万物を包み込む神」というところに、本書における井上神父の神観が集約されて表現されている。この箇所では、いささか堅めの表現で、「包み込む神」というモチーフが初めて登場しているが、少し後の箇所では、「包み込む神」を受け入れることが私たちの人生において果たす役割について、より分かりやすい実践的な文脈で語られている。
(以下、引用終わり)